もう一人の少女 22
明日香は肩口でその黒髪が揺れるのを感じて、そのいつもと違う感覚に髪の毛へ手を伸ばした。
揺れる髪を一束掴んで触る。
直ぐにサラサラと落ちて行く感覚はなれていなくて何処かむず痒かった。
風がその髪を揺らして通り抜けていく。
明日香は涼しそうに目を細めて、目の前の木々を見渡した。
気分転換に散歩してこいと言われたのはついさっきのことだ。
エラは家に帰ったそうだ。
多分、荷物とかを取りに行ったらしい。その後はグランの家に行って家族によって帰ってくる。
エラも居ないし開店準備をするからお前は散歩にでも行ってこいとヒューに酒場を追い出された。
そして今、行く当てもないので仕方なく森の中をぶらぶらしている。
清々しい森の匂いは好きだ。
視線を巡らせて、明日香はフッと思う。
この先には確かあの井戸があるはずだ。この何日かで何度も通ったあの場所は覚えている。
何より、あの夢でも見た場所で、エラにも忠告した場所だ。
なんだかそんなに経っていない事の筈なのに、酷く懐かしく感じて明日香は目を細めた。
何気なく、そちらの方向へ足を向ける。
しかしその時、後ろの方でパキッと何かが折れる音がして、明日香は振り返った。
見つけたその後ろ姿に、クリスは足を速めて近づいた。
木の枝を踏んで足下でパキッと音がする。
それも気にならなかった。
庭園では伸ばすことに躊躇し結局掴むことの無かったその手をやっと見つけた彼女へ伸ばす。
それは今度は彼女へ届き、クリスは躊躇なくその身体を抱き留めた。
「…クッ、クリストファー!?」
裏返った声が腕の中から聞こえ、その身体が硬直するのが分かる。
敬語も敬称もない、呼ばれた名が酷く心地良い。
真っ直ぐ見上げるその目。
その持つ雰囲気。
声の響きまでから、彼女≠セと感じてクリスは抱き留める力を強めてその肩に顔を埋めた。
彼女の困惑が大きくなるのを感じ、我に返ったのか引きはがそうと藻掻き始める。
しかし、それを意にとめずクリスは、揺れる髪から香った香りに安堵した。
「…やっと、見つけた」
思わず落とした言葉に、彼女の抵抗が治まり覗うようにこちらを見ているのを感じる。
クリスは顔をあげて、彼女の顔を見下ろした。
見上げてくるその顔には驚きと混乱がある。
彼女の短くなってしまった、肩口で揺れるその黒い髪を触る。
「髪を、切ったんだな」
彼女はますます混乱を深めたのか、眉を寄せた。
その様子に、少しクリスは苦笑いを漏らした。
我ながら、唐突すぎる行動を思って腕の中にいた彼女を解放する。
それに少し安堵したのか、彼女はしかしそのままこちらを見据える。
その表情、佇まい、眼差し全てに彼女を感じてクリスは顔を緩ませた。
先ほどとは違う。
やはり、エラは違うのだ。
こう見れば分かる、全く違う人だと、存在だと感じる。
クリスはそう思いながら、懐に手を入れると先ほどエラにした様にそこから袋を取り出すとその中身を彼女へ見せた。
手に持つ、蝶を象った青い髪飾り。
彼女は目を見開いてそれに手を伸ばした。
いきなり現れたクリストファー。
何も分からずに抱き留められた温もり。
訳が分からなかった。
ただ、落とされた心底嬉しそうに呟かれた言葉に抵抗する気を失った。
そして、その懐から取り出されたものを見て、ただ思ったのは何故…という言葉だった。
「…どう、して」
思わず言葉を落として、手をそれに伸ばす。
クリスは容易にむしろそれを私に手渡した。手の上に、目の前にあるそれ。
蝶を象った青の髪飾り…──それは、間違いなく母の形見だった。
こちらに来て、無くなったそれはあちらに置いてきてしまったのだと、深く考えることをしなかった。
否、出来なかった。
でも、今ここにあるそれは確かに本物で。
何故、忘れていたのかと思う。こんなに大切なもの。
唯一の、ものを。
戻ってきた、それに今とても安堵した。
ギュッと握り、目の前のクリストファーを見上げる。
彼は優しく私を見下ろしていた。
「…あなたを、探していた」
強く、強く求められて居ると分かる声。
真っ直ぐに向けられる瞳。
心が、何かに満たされていっているような気がした。
欲しかったのは、これだったのだ…。
──何処かで、思った。
「…クリストファー」
深い緑のその瞳が輝く。
強い光を持って。
どうしようもなく、惹かれていく。
明日香は、身体から力を抜いてクリストファーへ身をゆだねた。
ゆっくりと身体に回される腕が、酷く心地よく感じた。
「この、森で見かけてからずっと、ずっと思っていた」
焦がれるほどに、と言うクリストファーに明日香は小さく瞬きした。
その顔を見上げる。
きっと、不思議そうな顔をしていたのかもしれない。
クリストファーは優しげに明日香を見下ろした。
「舞踊会前日の夕方、この先の井戸で鳥と夕日を見ていただろう。
その横顔が、ひどく綺麗だった」
思い出すようにそう言ったクリスに明日香はその顔を唖然と見上げた。
頭に浮かぶのは、あの時。
忠告をしに井戸で待ち合わせをしたときのエラの姿。
肩に止まっっていた、小鳥。
この人が見たのは、本当に私なのか。
…エラ、ではないのか?
満ちていた感覚が引いていく。何かが、すり抜けていく。
明日香はそう思った途端、クリスを突き飛ばした。
自分を突き飛ばし、走り去っていく彼女の姿をクリスは茫然と見つめた。
確かに、受けためてもらえたと思った。
預けられた身体に、安心したような表情。
背中に回されかけていたその手を確かに感じていたのに。
何故、なのか。
急に否定し、逃げていく彼女に何があったというのか。
ただ、最後突き飛ばされたときの彼女の表情は…──裏切られたと言うような、絶望に似た何か。
泣きそうな顔をしていた。
一人にしてはいけないと、直感で思った。
クリスは直ぐに、彼女を追いかけた。
追いつくのは容易かった。
男と女で、さらに彼女はスカートをはいていた。
直ぐに距離は詰められ、彼女の姿が目の前に着たとき、クリスは直ぐにその腕をつかみ取った。
「…っ放して!」
「嫌だ」
怒鳴るような声に直ぐに返答を返す、そして続けて「どうして逃げるんだ」と言葉を落とした。
嫌われたのかと思った。
全身で打って変わって拒絶を示す彼女に。
「私は、違うのっ」
なにが、とは聞かなかった。
何処か苦しそうに叫ぶように言った彼女に、何かを言う気にはなれなかった。
それに、彼女が何に苦しんでいるのか。彼女の脆さに繋がっている気がした。
静かに、ただ言葉を聞く。
…ただ、投げつけられた言葉にクリスは目を見開いたのだ。
「あなたがっ、あなたが好きなのはエラでしょうっ」
「…はっ!!?」
何故そこに繋がるのか分からなかった。
ただ、苦しそうに叫ぶ彼女が冗談を言っているわけ無く、本気でそう思っている。
それを感じてクリスは唖然とした。
「違うっ!!」
気がつけば怒鳴り声を上げていた。
目の前の彼女が、身体をびくりと震わせて身体を引く。
逃げる身体をしかし、クリスはグッと引き寄せてまたその腕の中に閉じこめた。
思い出したように抵抗する身体を押さえつけて低く言う。
「何をあなたが思ったかはしらない。だが、間違いなく、俺が探していたのはあなただ」
「そんなのっ」
「分かる」
弾けるように反論しようとした彼女の言葉を強く遮る。
彼女が怯んだのが分かった。
そのまま、ジッと彼女を見据えて伝える。
「さっき彼女には会った。でも違ったんだ。違う、俺は彼女じゃなくあなたが良い」
彼女は唖然と俺を見上げた。
目を見開いて、抵抗を止めた彼女の首筋にクリスは顔を埋める。
嫌われたのではないなら、離さない。
いや、きっともう嫌われていようとも離すことなど出来ないのだ。
「誰でもないあなたの名前を、教えてくれ」
そっと、背中に彼女の手が回ってきたのを、感じた。