深く、暗い 16


「あれほど、絶望を感じたことは無かった」
レオナルドは目を伏せてそう、呟きを落とした。
それは、明日香にとってとても身近な感覚だった。
一番近かった人を亡くした悲しみは、計り知れない。
「でも、それがあったから、僕は婆を受け入れることが出来たんだ」
結ばれていた唇が緩く吊り上がる様を明日香はどこか茫然とした面持ちで眺めていた。



それから直ぐのことだった。
クリストファーの母である側室の女が、自らの母のいた筈の場所である正室へと上がったのは。
それはある意味必然、だった。
一国の王が正室が不在のままでは居られない。
そして、王位第一継承者の母である女が正室に上がるのも、当然と言っても良い事だった。
レオナルドは暗い思考の中、自分をそう納得させ、何とか気持ちを立ち直らせようと努力した。
そんな時の事だった。
レオナルドは沈んだ気分を起き上がらせるために、庭園へと向かっていた。
あの場所は昔からレオナルドにとっては大切な場所だった。
その日、しかし庭園には先客が居た。
「…母様」
響いたのは兄の声だった。
そして続いて聞こえる、正室へと上り詰めた女の笑い声だった。
レオナルドはその場に足を止め、立ち止まる。
目の前で笑う女とその側で眉を寄せてたたずむ兄の姿から目を離すことが出来なかった。
「…どうして」
笑って居るんだろう。
母上が死んでしまったのに。
声が思わず漏れた。
見ていられなくて戻ろうとしたときだった。
「今度は目を反らすのかい」
声が、響く。
それには聞き覚えがあった。
視線を辺りに巡らせるが、声の主であるはずの者の姿は見えず。
「お前が見ているものが、真実だろう?」
直接響くような声は、間違いなく何年か前に聞いた魔女≠フものだった。
レオナルドは首を振る。
この声の言っていることはいつも理解できないことばかりだ。
何が、真実だというのか。
「お前は何も持っていないという事だよ」
自分の心を読んだかのように声は告げる。
レオナルドはその言葉に動きを止めた。
「なに、も…」
「お前は母さえも失っただろう?」
息を詰まらせる。
僕は、何も持っては居ない…?
何、も。でも、兄様は…
「ほらあいつらをごらんよ。
 ああやって笑う女とその息子がお前の味方だって言うのかい?
 お前から全てを奪った奴らなのに?」
「奪った…?」
僕が、奪われた…?
そんなことはないはずだ。
だって兄様は何もしていないし、あの人だっが正室に上がったのも仕方がないことの筈だ。
「本当に?」
魔女は続ける。
知らせるように、知らしめるように。
「だって、あの女がクリスを生まなければ、正室に上がることはなかった。
 クリスが居なければ、お前が王位第一継承者だった筈なのに?
 周りの期待はもちろん向けられたし、今のお前のように孤独感を感じることもなかった。
 ほら、考えてみな。その通りだろう?」
兄様が、居なければ…?
僕は一体、どういう生活を送っていたのだろう。
期待を寄せられ、褒められた?
今のように、兄様と父上との遠さを感じることもなく。
向けられるものの差を感じることもなく…。
「ほら、お前はクリスさえ居なければ全てを手に入れようとしていたんだよ」
「全て、を…?」
魔女は茫然と聞き返すレオナルドにクスクスと笑いを漏らす。
「そうさ、お前が今手に入れようと頑張っているもの全てをね」
「…僕が」
小さく呟くレオナルドに魔女の声は深みを増し、とどめを刺すかのように魔女は言う。
「クリスがお前から全てを奪ったんだよ」
「兄様…が」
魔女は笑う。コロコロと面白がるように。
「兄様なんて呼ぶことないさな」
レオナルドは、ジッと兄とその母の様子を見てギリッと握りしめた。
「…クリスさえ、居なければ」
完全にレオナルドの中のクリストファーへの感情が憎しみへと変わった瞬間だった。



明日香は、話し終えたらしい魔女とレオナルドを睨み付けた。
レオナルドがクリスを憎んででいることは分かった。それがどういう形のもので、魔女に植え付けられたものだと言うことも。
だけどそれはこの兄弟二人の事情だ。
何故、エラが巻き込まれなければならないのか。何故エラが悲しまなければならないというのか。
「何で、その子を。いいえ、本当は私を連れてこようとしたのよね」
その問いに、レオナルドは眉を寄せてやがて嘲笑うかのように息を吐き出した。
「クリスがお前を望んだからだ。失敗していたらしいがな、しかしまぁ、ここまで似ていたら同じか」
クスクスと可笑しそうに笑うレオナルドに明日香はさらに強く睨み付ける。
それさえも面白がるようにレオナルドは笑みを深めた。
魔女は話さない。それどころか身動きをせずに傍観している。
何を考えているのか…。
「…クリストファーが望んだから、こんな事をしたの」
「そうだ」
笑みと共に素早く返ってきた答えに明日香は眉を寄せる。
違和感。
何かが違う。
「何故?」
この引っかかる違和感は何なのか。
問う明日香にレオナルドは片眉を器用にあげると言った。
「全てを僕から奪ったくせに。これ以上何かを手に入れようとするクリスが許せないからだ。
 お前を僕が手に入れればクリスはこれ以上何かを手に入れることもなく、僕を突き放していくこともないだろう」
レオナルドは暗い表情で笑いながらそう言った。
明日香はさらに眉を寄せる。
レオナルドの言うことは何かが違っているのだ。
「…レオナ」
話そうとした明日香の言葉を遮るようにレオナルドは言葉を吐き出す。
聞きたくないというように。
「だから、奪ってやった!クリスが何かを手に居てるなんてもう許せないっ!
 だって、思うだろう?これほど悔しく思うものはないはずだっ」
クスクスと笑いながらそう叫ぶレオナルドの言葉に違和感は消えない。
それが分かった明日香は、その馬鹿馬鹿しさに怒りの声を上げた。
「ばっかじゃないのっ!!!?」
パシンッと渇いた音が部屋に響く。
明日香はレオナルドの頬を叩いた手を押さえてギッとその顔を睨み付けた。
レオナルドは数秒固まり、しばらくしてそろそろと頬に触ると同じく明日香を睨み付けた。
痛いはずだ。叩いた私の手も痛い。でも殴らなければ気が済まなかった。
「…何をする」
低く、地を這うような声だった。
でももはや恐怖など微塵も感じない。
「何もクソもないわよっ!このブラコン野郎が!!」
レオナルドは意味の分からない言葉に眉を寄せる。
ただ良い言葉ではないというのは明確なことで、さらに明日香を睨み付けた。
そして何か言おうとしたのか口を開き掛けたレオナルドに明日香は声を発する前にさらに怒鳴りつけた。
「何なの、結局はあんたクリストファーから離れたくないだけでしょうがっ!
 何?僕を突き放していくことはないだぁ!?だから奪うんだって!?お前は玩具を取られそうになった子供か!!!?」
明日香の怒鳴り声にレオナルドは一瞬目を見開いてスッと眉を寄せる。
「何を言っている…?」
「あぁ、馬鹿!アホ!クソ!ブラコン!
 大体ねぇ話聞いてれば、何?同じ教育をされない!?当たり前でしょうが!
 極端に言うけどね、あんたは0歳児と3歳児同じレベルの教育をさせようとする!!?」
「さっきから何だ!するわけがないだろう!」
「それと同じ事でしょうがあんたの問題は!」
レオナルドは厳しく顔を顰め、しかし次の瞬間にパッと自分の口元を押さえた。
「そんなはずは…それに、その後も」
何処か唖然とした表情で呟くレオナルドに明日香は口を引き結ぶ。
馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。こいつは馬鹿だ。
何でこんな事をいちいち話さなければならないのか。
いや、こうなったのは周りのせいか。この異変に気がつくことの出来なかった、周りの。
「自分で言ったじゃないの!人一倍努力して勉強したって。
 自分で限界まで勉強しる奴にどうやってそれ以上の事教えろって?」
「…そんな」
それこそ茫然と、呟きを落とすレオナルドに明日香は呆れの視線を向けた。
自分よりも年上の男のその姿は、酷く小さく見えて明日香は眉を寄せたのだ。
「周りを否定して、自分の予想と想像でちゃんと真っ直ぐに相手を見なかったからでしょ。
 突き放してたのは周りじゃなくてあんた自身じゃない!」
レオナルドは、唖然と明日香を見返し、そして目を見開いて固まった。
気がついたのか、ショックを受けたのか。
でもこの様子なら、きっともう大丈夫だ。
この人に必要だったのはもっとしっかりと気持ちをぶつけてやれる人だった。
「あらまぁ」
こんな風にねじ曲げてしまうような人じゃなく。
明日香はやっと口を開いた魔女を睨み付ける。
「本当に、口の減らない小娘だねぇ」
「余計なお世話よ」
きつく言い返した言葉にも、魔女はコロコロと笑う。
魔女が、何かをする気配はない。
この人には、何か目的があってこんな事をする訳じゃないのだ。
ただ、楽しめれば、面白ければいいのだから。
「婆…僕は、間違っていたのか」
「どうだろうねぇ、少なくとも間違っていたんじゃないのかい?この娘の言葉を聞くならね」
返ってきた肯定に、レオナルドは絶望に近い表情で魔女を見る。が、魔女はレオナルドに視線を向けることはなく明日香を見たまま。
「…婆?」
「レオナルド、あんたは中々楽しかったよ。悪かったね」
さらにあっさりと加えられた謝罪と笑い声にレオナルドは茫然とその場に立ちつくした。
口元が小さくそんな…と動いたが、声にならなかった様子を見て明日香は顔を歪めた。
「…このっ」
「まぁ、まちな小娘。やっかいなのが来たからね、場所を変えるよ」
そういった魔女の視線はいつの間にかこの部屋のドアへと向けられていた。
魔女の手に持つ杖がゆっくりと光り出す。
魔女は顔を立ちつくしたレオナルドに向けると緩く笑った。
「いろいろすまなかったね。きっともう会うことはないだろうさ。
 これからはとあんたの兄さんにでも話しは聞いて貰うんだね」
そう、魔女が言い切ったその刹那。
部屋に白い光が満ち、魔女は…─明日香とエラと共にその場から忽然と姿を消したのだった。



茫然とそこに立ちつくしたまま外からする騒がしい音に気がついた。
誰かがこの部屋へ走って来ているようだ。
バタバタという音は思った通りこの部屋へ向かっていたようで、その主はバンと大きく音を響かせてそのドアから飛び込んできた。
勢い良く開かれたドアから現れたその人物はその体を血に染めていた。
その深緑の瞳が真っ直ぐとレオナルドを射ぬく。
偽りのない澄んだその目にレオナルドは自分の中にあった感情を見つけて唖然とした。
上手く動かない思考の中でレオナルドは思ったのだ。
「レオナルド、ここに町の娘はいるか?」
酷く焦った顔で、血に汚れてしかし視線は変わらず真っ直ぐと自分を見つめる。
――その姿がレオナルドにはひどく美しく見えたのだ。

「…レオナルド?」
変わらぬ、兄の視線。そうだ、自分は……─。
レオナルドは自分の愚かさに嘲笑すると、今まで胸の内にためていたものを吐き出すかのように全てをポツポツと話し出したのだった。



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