深く、暗い 14
クリストファーは側室の子供だった。
王は正室の妃を迎えていたが婚姻を結んでから3年もの間子に恵まれることはなく。そんな時に側室≠ノ生まれたのがクリストファーだった。
クリスは金の髪に深い緑の瞳という王の色を全て受け継いで生まれてきていた。
周りはクリスの誕生を盛大に祝った。何せ恵まれないと思っていた王子が生まれたのだから。
しかし、皮肉なことにその3年後。正室≠ノレオナルドが生まれた。
当時、国中が正室のこの誕生を喜んだが、同時に新たな争いの起こる不安も一部の人間は覚え始めていた。
それを危惧してか、王は早々と王位継承者を指名しそれを決定として発表した。
第一王子クリストファーを継承者にする≠ニ。
もちろん、正室の子ではないクリストファーが王位を継承するのに反対する者も居た。
しかし、クリスはとても頭が良く才能があった。
それは年を重ねる事に発揮されていき、やがてそれに反対する声を上げる者は居なくなっていった。
そしてクリスはそのまま王位第一継承者として認められる事となったのだ。
レオナルドの周りには物心つく前から多くの人が居た。
母や乳母に侍女達、その皆がレオナルドを可愛がり共に時間を過ごした。
レオナルドもまた元来、素直で明るい性質を持っており周りはそんなレオナルドに優しく穏やかに接していた。
しかし、ある時レオナルドは不思議に思ったのだ。
たった一人の兄弟であるクリスは毎日せわしなく勉強を繰り返していた。
しかし、自分はそんなに勉強をしているわけではない。
「ねぇ母上。兄様は勉強してるのに僕は何でしなくても良いの?」
レオナルドはその時の母の顔を鮮明に覚えている。
大きな哀れみと、怒りを、多様な感情を秘めた表情を。
母はそんな表情で小さなレオナルドを見下ろすとかがむこともせずにそこから言葉を放つ。
「あなたは良いのよ、レオナルド。
あなたは生まれるのが遅かったからやらなくてもいいの」
その声にはいつもの優しい母の声ではなく、何処か底冷えするような響きを持ってレオナルドに届いた。
幼いながらもレオナルドはそれを感じ取り恐れたようにそこを逃げ出したのだ。その時初めてレオナルドは母に恐怖した。
母が別人になったような錯覚を覚えてしまった。レオナルドが逃げた先は庭園だった。
様々な花が咲き誇るそこはレオナルドにとってお気に入りの場所だった。
それは兄であるクリスが時折そこで勉学の息抜きとしてそこにいることがあるからだ。
忙しい兄もその時ばかりは優しくレオナルドにいろいろなことを話してくれた。
しかしその時間は短い。いつも兄の侍女が兄を迎えに来るから。
レオナルドは今、兄の側にいたかった。母のあのよく分からない感情がとても恐ろしかった。
しかし、そこにクリスは居らず。
レオナルドは中央にある噴水へと腰掛けた。もう少ししたら来るかもしれないと期待を持って。
そしてその思いは叶う。
「…た…ぃい…う」
「です…じ…」
声が聞こえた。同時に音も。それは確実にこちらへと向かってきていて。
──兄様だっ
レオナルドは座っていた噴水から飛び降りると直ぐさま声の元へと走り出す。そこに居たのは願った紛れもない兄と小言を言っているらしい侍女。
兄は顔を顰めながらもそれを聞いて侍女も話を続ける。
近づく事に声は鮮明にレオナルドの耳にも聞こえだした。
「…─ると言っているだろう」
「─っていらっしゃらないから申しているのです!」
「だから分かっている」
「いいえ!分かっておりません!どれだけ周りがあなたを心配していると─…」
侍女の声が途切れる。
それは走ってくるレオナルドに気がついたから。
レオナルドもまた侍女が自分に気がついたのを知り、続くように兄も自分を見つけてくれたのが分かった。
「兄様!」
声を張り上げる。
兄は少し呆れたようにしながらも手を振ってくれる。
一目散に駆け寄るレオナルドに、しかし声をかけたのはクリスではなく側に控えた侍女だった。
「こんなところでどうなされましたレオナルド様」
いつも通りの、優しげな笑顔に言葉。
しかしこのときレオナルドは密かな違和感を感じたのだ。
それはモヤモヤとした黒い影を心の端に生み付けて、レオナルドは戸惑った。
「あ、の。兄様に会いに来た、んです」
「あぁ、殿下に。
すみませんレオナルド様、王子はお忙しく直ぐに戻らねばならないのです」
「おい、さっき休めと言ったのは誰だ」
不満げにクリスは声を上げ、侍女はクリスへとその視線を戻す。
拭いきれない、その違和感。
何かが、違う。そしてそれは、いつも自分の周りに居た者達に感じていたものだとレオナルドはこのとき気がつく。
否、気がついてしまった。
「殿下、あなたには皆が期待しております。その期待に見合う努力をなさってくださらねば」
そう言って兄に向ける侍女の清らかな笑顔。
一見自分に向けられるものと同じそれは。
クリスは疲れたようにため息を吐き出して軽くかがんで目線をレオナルドにあわせる。
「すまないレオナルド。俺は戻らなければならないらしい」
「レオナルド様、我が儘を言って殿下を困らせてはなりませんよ」
すまなそうに、普段無表情な兄の眉尻が下がる。
それに続くように告げられる侍女の言葉。その自分を見下ろす侍女の表情に気がついてしまった。
その向けられる困ったような笑顔の違いに。
気がついてしまった。
「レオナルド?」
兄の怪訝そうな声が届く。
レオナルドはハッとして兄に向き直る。そして、無理矢理笑うとゆっくりと言葉を落とした。
「ご、めんな、さい兄様。頑張ってください」
それをどう取ったか、兄は自分の頭を撫でて困ったように笑う。
そして「すまない」と優しく言葉を落とし、離れる手の温もり。
レオナルドは茫然と兄と侍女を見上げ、そしてそれに確信を持つ。
「では王子、戻りましょうか」
「あぁ」
──違う。
「また後でな、レオナルド」
「…はい」
─こんなにも違ったのに、何故気がつかなかったのか。
否、自分にはけしてそれを悟らせようとはしない、奥に隠された、しかしその差はしっかりと見れば感じ取れてしまった。
目が、違う。ソコに秘められた感情が違うのだ。
兄と自分とに向けられるそれは。
レオナルドにはしかし何が違うのか分からなかった。
兄に向けられる暖かなそれとは確かに違う、何か。
レオナルドはその気がついてしまったものに酷く不安を覚え、そこに立ちつくした。
「……─知りたいのかい」
突然響いた声にレオナルドはびくりと肩を振るわせた。
それは低くしかし軽やかにからかうような響きを持ってその場に響いた。
しかし振り向いた先に人影は無く。
「…誰?」
レオナルドは警戒をして低く呟く。姿の見えない声は何処か不思議な響きを持ってレオナルドへと届いた。
声は笑う。
本当におかしくて仕方がないというように。
「知りたいんだろう?」
「…何を?」
声は笑う嘲笑うように。
その低い音を振るわせて。
「自分が、一番分かっているだろう?」
「何、を──…」
背後に突然その気配が現れてレオナルドは振り返る。
そこにいたのは大きな存在感をまとった黒のローブの影。
「お前の知りたいことは私が教えて上げるよ」
覗く口元が三日月のように弧を描いた。
…─語られる内容は、何処か漠然としていて。
自分とは遠い世界の様な気がした。
私には、王族とかそんなのは分からない。
だって一般市民で、全く関わりのないものだったんだから。
ただ、思う…─この人は悲しい人だと。
「婆は僕に教えてくれたんだ」
真っ直ぐと視線を合わせたその目が、絶望に染まる。
分かってしまった。
それはきっと、奥に根付いてしまった疑惑と絶望に似た。
深く、暗い闇。
「その違いは、侮りだと」
この人はとても、悲しい人なのだ。