終わりの一夜 12


「っは、はぁ」
暗い闇の中で、少女の荒い呼吸が大きく響く。
それは不気味さとその場の静けさを感じさせ、その肌寒さに彼女は一瞬身震いした。
彼女…─明日香は家の正門の前にある木に手を付き、大きく肩を上下させる。そうしながらも視線を鋭くし辺りを見回して、あまり変化が無いことに酷く安堵した。
家の玄関。そこにはあの夢≠ナ見たものはなく、それは同じ顔の少女…エラとグランの無事を示すものだ。
─…今は何の変化もない。
「…なん、だ、何の、変化も…無、いじゃ…──」
言いかけた言葉を、明日香は喉の奥で飲み込んだ。
──…カサッと、密かに何かが動く音がした、気がした。気のせいかもしれない。しかし、それを事実にするように今度は確実にその音が明日香の耳に届いた。
思わずゴクリと息を飲んで気配を隠す。しかし明日香は次の瞬間に全てが真っ白になった気がした。
それは、本当に密かなものだった。
しかし確実にそれは明日香の元に届きそしてその事実を彼女へと伝えた。
その声は、もがくようなそう、酷く苦しげなあまりに儚くそして絶望を思わせるものだったのだ。
「…っぅ…ぇ、…ら……っく、ぁ…」
明日香は体中から血が引いていくような感覚に襲われた。
その声が聞こえたのは家の玄関ではなく、家の右側の方面だった。
そしてそこに急いで回り込んだ明日香は頭に浮かんだ光景とあまりに似すぎた、否夢≠サのものの光景に声を失い、絶望を感じてしまったのだ。
「…─グ、ランさんっ!!」
──地面に横たわったグランは、傷口を必死に押さえて、壁に横たわっていた。
明日香は初めて目にするあまりに生々しい現状に逃げ腰になるのを必死に押さえてグランに駆け寄った。
近づくと足下でパシャと音がしてそれが何なのか考えると、どんどんと頭が血の気を失っていく。
ただ、頭から血が引いたせいか妙に冷静になっていくのを感じて明日香は奇妙な心地になったのだ。
そう、きっとまだ終わっていないからだ。
彼は、グランはまだ死んでいない。夢≠ナは彼は即死だった。
しかし、まだ終わっていないのだ。彼はまだ息をし、そして意識も恐らく保っている。
まだ…まだ、大丈夫。変わる、夢£ハりに進ませはしない。
明日香はグランの傍らに座り込むと傷口を確認した。
急所は避けてあるらしい。だがこのままだとどちらにしろ出血多量で危ない。…それだけは分かった。
そしてもうすでに多量の血を流してしまっただろう事は一目で分かったことだ。
グランは駆け寄った明日香に焦点の合わない目を向けると、手を伸ばして密かに口を動かす。
「…ぇ、ら…」
その声に、明日香は自分とエラを間違っていることに気がついて、不意に泣きそうになってしまった。
ここにエラがいないと言うことは、恐らく弟王子のレオナルドに城へ連れて行かれたのだろう。
エラが今危ない状況にいるのも、こんな事を考えている暇がないことも分かっている。それにここでもし泣いたならグランに負担が掛かるだろう事も。
私はここではエラ≠ネのだ。彼女ではないけれど、しかし今彼女を守るために私はここにいる。
私がエラ≠カゃ無いのだと知っているのはグランと、エラだけで。私は本当はここには存在しなくて、居場所なんかあるはずもなかったのに。
なんだかこんな状況でそれを実感して、唇を噛み締めた。
そして、明日香は一瞬目をつぶると、ゆっくりと穏やかな笑顔を作った。
──エラ≠フ様に。
「グラン…、私は大丈夫だから、あまり無理に話さないで。」
明日香がそう言うと、グランは眉を寄せて彼女の顔を凝視する。
そしてしばらくして、苦しそうにしながらもかすかに声を絞り出した。
「…ぇ、ら…ど、し…っ」
その言葉を落とすとグランはその身体から急に力を抜いてぐったりと腕を投げ出したのを見て叫び声を上げた。
「グランさんっ!!!」
─…その顔が血の気が無く青白くなっていくのを見て、明日香は必死に頭を働かせる。
どうすれ、ばっ。
明日香は混乱する頭を必死に落ち着けながら自分の着ていたドレスを躊躇無くビリビリと破った。それで止血しようと傷口にぐるぐると巻き付けてギュッと縛る。
そしてさらに上から傷を圧迫してどうにか血を止めようとするが、巻いた布はもう赤がしみ出始めていた。
どうしたらっ。
グランは刺されて、エラは連れて行かれてしまった。
全て、早く解決しなければならない。グランもこうしているが知識がない私では恐らく時間の問題だろう。エラも、早く助け出して上げなければどうなるか分からない。
明日香は自分の無力さに、唇を噛み締めた。
その時だった。ジャリッと土を踏む音と少し乱れた息が明日香の耳に届いたのだ。
…─人が、来た!!
そう思った瞬間、叫ぶように声を上げた。

クリストファーは、たどり着いた家の前で、その家に明かりが灯っていないのを見て当てが外れたことに落胆を感じて思わずため息を吐き出した。
ここまで走ってきたために息が荒い。
あの少女の家は恐らくここで合っているはず。ならどこへ行ったのだ。
その時だ、クリストファーの元にやけに必死に助けを求める声が届いた。
「誰か!!そこにいるのなら助けてっ!!」
あまりに緊迫したような説破詰まった聞き覚えのある声に、クリストファーは驚きと共に何かを感じて直ぐさま声の元へ歩みを向けた。
そしてそこに広がった光景に思わず、身体を硬直させて声を失った。
──そこは、血だまりが出来、恐らくその血の持ち主であろう横たわった男に、その男の身体に縋り付くように服を赤黒く染めた彼女がいたのだから。
彼女は一瞬、こちらを見て目を見開いた。しかし、直ぐにこちらへと助けを求める声を上げた。
「…っ急所は外れてるけど、出血が凄いの!私じゃどう対処したらいいのか分からないのよ!!」
その声にハッとしたクリストファーは直ぐさま駆け寄ってその傷を確かめた。
確かに急所はそれ傷自体は恐らくそうでもない。しかし時間が経ってしまっているようでこのままだと危険なのは確かだろう。
布で押さえられている。
昔、知り合いに教えて貰った対処法を頭から引き出して応急処置を開始した。
しかし、自分では十分に対処しきれない。助けが必要なのは歴然だった。
あの少女は自分の横で惚けたようにじっと凝視している。
この男は、この娘にとって大切な存在なのかもしれない。状況について行けていないのは見て直ぐに分かった。
「…おいっ!」
「は、はいっ」
彼女は驚いたのだろうビクッと肩を振るわせながら、大きく声を返してきた。
その様子を気配で感じながらクリストファーは、恐らくこの男を救うのに協力してくれるだろう者を呼んでくるように言った。
「森を出て直ぐの酒場の亭主、名前はヒューだ!ここは俺が見ている、呼んできてくれ!」
その声を聞いた彼女はハッとしたように立ち上がって「お願いします!」と叫びながらクリストファーに背を向けて走り出したのだった。

明日香は走っていた。時は一刻を争う事態だ。
先ほどよりもグランの血が服にしみこんで走りづらい。
しかし、気にしてもいられなかった。
『森を出て直ぐの酒場の亭主、名前はヒューだ!ここは俺が見ている、呼んできてくれ!』
そう言われたのはついさっき。明日香はその名前に聞き覚えがあった。
買い出しに街へ行くと、時々外で会う男だ。酒場で働いていると言っていたのを覚えている。
王子であるクリストファーが何故ヒューを知っているのか疑問が起こるが、思い出してみればヒューは良く筋肉の付いた身体をしていた。
恐らく、元騎士とかそんなんだろう。と納得させた。
クリストファーが呼べと言ったのだ。恐らく、力になってくれる人物。
そうだと、今は彼を信じることしか明日香には出来なかった。
そう考えているうちに見えてきた酒場に、明日香は何かを考えるより先に飛び込んだのだった。



ヒューが来たのはそれから直ぐのことだった。
それほど距離が離れていないこともあるし、恐らく向かわせた彼女の姿を見てただごとではないと思い急いで来てくれたのだろう。
ヒューと一緒に同じく酒場で働いているマーサが走って来るのを見てクリストファーは自分がひどく安堵するのを感じた。
もちろん彼らが来るまでの間自分が出来ることはしたが、やはり経験があり自分にその対処を教えた人物の方が的確に出来ることだろう。
彼らは横たわる男のそばに付いているのが自分であることにひどく驚いたようだった。
「おいクリス!何でお前がいる!?」
ヒューがそう叫びながら走ってくる。マーサも後ろで「クリスさん!!?」と叫んでいた。
しかし、今はそれどころではない。
「後で質問は聞く!!まずこの男を見てくれ!」
それで二人の意識は血まみれの男へと移り、見た瞬間に顔を顰めた。
「おいおいおい。まじかい」
「この出血量は危ないですね」
クリストファーとは反対側から怪我の状況を見て、ヒューは眉を寄せる。
そしてマーサに目伏せすると、てきぱきと処置をし始めたのだった。

クリストファーはその間その様子を見ているしかなかった。
その途中、クリストファーは気になることに気がついたが、直ぐに問うのは控えた。
時刻は等に12時を回り深夜になっている。
男の様態は今は大分落ち着いて、何とか命を取り留めたようだった。
そして男の身体は今はヒューの酒場(住居)の客室に移され絶対安静の状態で後は目が覚めてくれることを祈るだけだ。
「クリス、で?お前が何であそこにいた」
「そうですよ、今日は舞踏会でしょう。主役が何でこんな所に居るんですか」
思わず苦笑いする。そうだ、俺は彼女を追いかけて抜け出してきたのだから。しかし、二人がそんなことを聞きたいのでは無いのだと分かっている。
クリストファーは苦い気持ちでゆっくりと口を開いた。
「ここに来ただろう。彼女と知り合いなんだ。会いに来たらもうあの状況だった」
二人はそれだけで何かを察してくれたようだった。クリストファーはしかし二人が口を開く前にさらに言葉を重ねる。
「そういえば、彼女は何処だ?ヒュー達を呼びに来させた後…─今何処にいる?」
その問いに、二人は顔を見合わせて怪訝な顔をした。
そして、やがて戸惑うようにクリストファーへと視線を向けた。
「…お前の言う彼女、エラは城に行くと言って直ぐに走ってったぜ?」
「僕らはクリスさんが城に報告に行かせたと思ってたんですけど、…違うようですね」
彼女…─エラと言うらしい少女が城へ行ったと言うことにクリストファーもまた首を傾げた。
彼女、エラはあの時逃げるように城を走り去ったのだ。
なのになぜ城へ向かったのか。
もちろん、あの状況で城へ行くのだから何か目的があるのだろう。
応援を呼ぶためか?否、それならとっくに兵が駆けつけていることだろう。
ならなぜ─…。考えるうちにクリストファーは思い出す。
彼女は自分たち、王子について探っていなかっただろうか。
あの時、彼女はレオナルドを見て苦々しく顔を歪めたのだ。そして、俺も王子だったと気がついたとき彼女は表情を凍らせた。
その後は何かを警戒するようにレオナルドと踊った後、逃げるように去った彼女。
そして思い出す、あの時のレオナルドの視線はけして良い物ではなかった。
口角をつり上げて、いつもと違う表情でこちらを見て笑った弟の視線はひどく冷え切っていた。
そこにたどり着くと同時にクリストファーは立ち上がった。
「クリス!!?」
背中で叫ぶヒューの声を聞きながら、クリストファーは勢いよく城を目指して酒場を飛び出していったのだ。



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