飛べない花 08
アレクサードが屋敷を留守にしてから、メイディアはこれ幸いと飛ぶ練習を繰り返していた。
少しずつ確実に、その成果を見せながら。
あの後、アレクサードの謎を垣間見て茫然としている中メイディアの耳に入ったのは“明日出発する”と言う言葉だった。
「ピッ!?」
思わず息を詰まらせたように声を漏らしたが、二人はメイディアを一瞬見ただけで直ぐさままた向き直った。
アレクサードは厳しく眉を寄せて渋い顔をしているベートを見て小さく息を吐き出した。
「いくら何でも早すぎです」
「…分かっているさ」
疲れたように眉間を押さえてアレクサードは漏らした。
ベートは厳しく顔を顰めたまま言葉を待つようにジッと自らの主人を見つめたまま沈黙を保っている。
メイディアはその空気に思わず息を潜め、同じくアレクサードを見つめる。
アレクサードは一瞬目を閉じた後その目に厳しい色を宿して窓の外の“どこか”へ視線を向けた。
「最近“彼ら”が動き始めた」
アレクサードの言葉にベートが息を詰めたのが気配で分かった。
しかし、彼らとは一体誰なのだろう。
それに動いているって?
二人の様子からそれが良くないことだとは分かるが、いったい何のことを話しているのか、全く分からなかった。
また、こんな所でも無力を感じて身体が強張る。
この感情は何なのだろう。
飛べるようになれば消えるのだと思っていた。
「…少し様子見を。
俺がこの地にいない方がその動きは活発になるだろうからな」
急いだ方が良いだろう、と小さく続けるアレクサードに、ベートは心得たように小さく頷いた。
その二人の様子にメイディアの胸はまた少し疼いた。
何の話なのか、私には分からない。
…─この湧き上がる感情は。
「直ぐに準備を整えます。留守中はお任せを」
ベートは全てを理解したように礼をし、アレクサードはベートの言葉に頷いた。
その中に確かに存在する信頼にメイディアはぼんやりと何か遠くを見ている様な感覚で眺めていた。
ツキツキと胸が痛む。
何だろう、分からない。
「屋敷は頼んだ、気を付けろよ」
何の話をしているのか。
二人の会話の意味も、私は知らない。
理解、できない。
──…あぁ、分かった。
「えぇ、旦那様もお気を付け下さいね」
疎外感、だ…──。
気がついて唖然とする。
どうしてそんなことを感じるのか。
私は今、取り残されたように感じている。
彼らとは肩を並べてすら居ないというのに。
全てを知りたいと、分かち合いたいと…。
──自分の足で一人で、立つことすら出来ていないというのに。
どれだけ私は欲深いのか。
メイディアは己の気持ちを振り切るようにして首を振る。
そして目を伏せ、二人から目を反らし気持ちを紛らわそうと外へと視線を向けた。
空は、不吉に曇り始めていた。
──そしてその翌日の朝。
アレクサードは従者を何人か連れて屋敷を出ていった。
王都までは馬車で二日かかる。
滞在期間は三日。
アレクサードがこの街へ戻るのは一週間後になるそうだ。
そっと曇った空を見上げたメイディアは、何事もなく無事に迎えることが出来るよう空に願った。
─…神様どうか、どうか領主様をお守り下さい…。
アレクサードが王都に発ってから、メイディアは部屋を移動させられるのだと思っていた。
何よりそこは領主の部屋で、持ち主が居ない間に動物をそこに残して置くことは無いだろうと思ったのだ。
ここは重要なものがあるはずだから。
しかし、そんなメイディアの予想は外れた。
アレクサードが発ったあと、メイディアが連れてこられたのはアレクサードの部屋だったのだ。
「ぴ」
思わず連れてきたベートを見上げる。
ベートはメイディアを彼女の寝床に下ろすと、その頭を小さく撫でた。
彼がこういったことをするのは珍しい。
実を言うと、屋敷の人間はアレクサード以外、メイディアから一歩距離を取ろうとする節があった。
確かに子動物として世話してくれたり、時折撫でてくれたりもするがやはり何処か引いている。
それはベートにも当てはまっていた。
メイディアは不思議そうに顔を上げてベートを見る。
彼は秘かに真剣な顔をしてメイディアを見つめていた。
「メイディア、お前がこの部屋を守りなさい」
何を言われたか一瞬分からずメイディアは硬直した。
しばらくしてゆるゆると視線を上げるとベートのその真剣な瞳と目が合う。
メイディアは知らずごくりと小さく喉を鳴らした。
「何か侵入者が来れば鳴き声を上げて異変を知らせてください」
分かりますねと念を押す様に言うベートにメイディアは知らず知らずのうちに頷き返す。
それを見てベートはふうっと息を吐き出すと手で額を抑えた。
「私は何をして居るんでしょうね」
その声は疲れたように吐き出され自嘲するように彼は苦笑いした。
鳥に話しかけるなんてと小さく言葉は続けられ独り言のように…──否、事実彼は独り言だと思っているのだろう。
どうかしていると小さく首を振った後、直ぐにメイディアに背を向けて彼はそのままアレクサードの部屋を出て行った。
パタンと乾いた音が部屋に響き、落ち着いた足取りの足音が遠のいていくのをメイディアは静かに聞いていた。
メイディアは思う。
そう言えば、メイディアは飛ぶ練習をしているのを始めに気がついたのも、何も言わずに見ていたのもベートだ。
彼はメイディアはどれだけ練習していたのか知っている。
否、彼しか知らないことだろう。
もしかしたら、それを見ていて何か感じたものがあったのかもしれない。
まさか、本当に人だと思うことはないだろう。
そんなあり得ないことが、起こっているなどと一体誰が考えるのだ。
もし、この鳥は人間なんだと主張する人が居たとしたらきっと私は信じない。気が触れたと思うだろう。
そんな鳥が目の前に居るとしたら人間じみた気味の悪い鳥だと思うくらいだ。
そう考えて、メイディアは自分の考えに落ち込む。
自分も恐らく同様の意識を持たれているという可能性は、高い。
それでも、この場所はとても温かいから。
少なくともベートは何かを感じてくれた。
さっきの言葉に驚いたのも確かだが、同時に歓喜が胸に起こっているのをメイディアは自覚していた。
どうかしていると思いながら、言葉にしてくれた。
私に、託してくれた。
それに応えなければ。
メイディアは顔を上げると、寝台から飛び降りた。
耳元を風の音が鋭く過ぎていく。
羽を広げ、空気に身体を浮かせた。
メイディアは持つようになってきた滞空時間を感じながら思った。
もっと。
もっと、頑張らなきゃ。
せめて早く一人でたてるように、ならなければ。
──例えそれが、鳥としてでも。
しばらくして空からは、ポツポツと雨が降り出していた。
日が沈む。
この勢いだと王都へ着くのは明日の夜になるだろう。
チラリと視界に映ったものに、思わず空を見上げた。
「…──雨」
小さく、呟きが漏れる。
それに反応したのか、前に座っている男が顔を上げた。
そして憂鬱そうに窓の外に視線を向けるとあぁ、と小さく声を漏らす。
「土砂降りになりそうですね」
「…そうだな」
頷いて同意し、目の端に映った鈍い光に反射的に身を捻った。
咄嗟に手を突き、身体ごと飛び退く。
その刹那、ドスッと鈍い音がして今まで自分が座っていたところにナイフが突き刺さっていた。
無意識にチッと舌打ちが漏れる。
相手が一瞬そのナイフに気を取られたのを感じ、その隙に腰に添えた剣を振り抜いた。
ヒュッと風を切る音が鳴る。
目の前ナイフに手を伸ばした体制で固まる男の首にピタッと剣を添えた。
空気が凍る。
「さすがですね、ご領主様」
そう言う男をアレクサードは冷たく見据えた。
まただ、と思う。
こんな事がここ最近はよく起こる。
しかし、自分の内側に潜んでいたのは嬉しくない事態だ。
何より、目の前の男は記憶が違わなければ随分と長く屋敷で働いていたはずだ。
グッと眉を寄せ、視線を鋭くし男を見据える。
剣は未だその男の首に当てたまま。
「雇い主は誰だ?」
きっと答えないだろう。
アレクサードはそう思いながらもその問を口にした。
案の定、男は口元を歪ませ。
その男の肩が微妙に上がるのを見て、アレクサードは咄嗟に身を捻った。
「言うわけがないでしょう?」
耳に届いたのはその言葉とナイフが風を切って飛ぶ音だった。
この距離ではたたき落とすことも避けきることも出来ず。
ナイフが肩をかする。
アレクサードがナイフに気を取られている内に、男は馬車の戸を開け半ば飛び降りようとしているところだった。
その背中に逃がすまいと剣を振る。
グッと手応えがあり、血のにおいが鼻についた。
しかし、咄嗟に避けられたのか斬りつけたのはその腕で。
そのまま男の身体は重力にそって地面に落ち、雨の中に消えた。
暗くなった景色にバシャバシャと雨の音が響く。
アレクサードはガバッと追うように身を乗り出して後方を覗ったが、もうどこにも男の姿は見ることは出来なかった。
「…逃がしたか」
死んではいない。
しかしあまり追う気にはなれなかった。
馬車から出していた身体を引っ込め、パタンとそのドアも閉める。
ドカッと勢いよく身体をイスに涼めると深く息を吐き出した。
そして鼻につく匂いに眉を顰める。
「…血か」
雨の匂いと混ざり、強く血の匂いが香った。
肩を掠めた傷を見る。
痛むが大したこともない。
アレクサードは視線を壁に向けそこに刺さったナイフを見つけるとそれをグッと引き抜いた。
それの刀身に目を向けると、ツーッと指を滑らせる。
そしてそこに何も塗られていないことに小さく息を吐き出した。
毒は、塗られていない。
「…全く」
傷を付けられるとは。
予想をしていなかったわけではない。
しかしそれでも己の内側に敵が潜んでいたことにショックを受けたと言うことだろうか。
何より長年屋敷にいた者だったと言うことが。
と言うことはまだ恐らく何人か居るのだろう。
屋敷にも、この場所にも。
アレクサードは今回同行している者達の顔を思い浮かべる。
そして同時に、屋敷の方も思い出し。
一番に脳裏を掠めたのは青だった。
小さなあの青。
屋敷を出るとき真っ直ぐにこちらを見つめ耳に心地良い声で鳴いていた。
その声が、今少しだけ聞きたいと思った。
──王都まではまだ遠い。
アレクサードは憂鬱そうに溜息を吐き出した。