飛べない花 06
パラッと、女の手から紙が滑り落ちる。
その手は小さく小刻みに揺れている。女の瞳は涙に濡れ、唇は苦しげに噛み締められている。
女の耳にかけられた長い髪の毛がサラサラと流れ落ちた。
震える唇がゆるゆると小さく動く。
「…な、ぜ?」
悔しげに呟かれた声に応える者は居ない。
今日やっと届いた手紙には断りの言葉と謝罪が綴られていた。
震えるその手は手に残った手紙の内容を読み終わると同時にグシャリとそれを握りしめる。
「あなたは、どうして私を…」
見てくれないの、と続けられるはずの言葉は嗚咽に呑まれて消える。
思い通りに行かない事はなかった。
欲しいものは何でも手に入れることが出来た。
でも、手に入らない。
本当に欲しいと思った人は私を見向きもしなかった。
あなたが欲しい、こっちを向いて。
求めても求めても手が届くことはない。
女は一人の男を思って泣いた。
そしてコンコンと、その部屋に戸を叩く音が響く。
女は顔を上げ、涙を拭くとゆっくりと声を出した。
「…はい」
「ローニカ様、旦那様がお呼びです」
女の使用人の声だった。
女…─ローニカは小さく首を傾げ、呟きを落とした。
「お父様が…?」
「メイディア」
暖かく呼ばれるその自分の名前。
でも、誰?お母さんでもないし、お父さんでもない声。
でもどこか暖かくて優しい…。耳に馴染む、低い声。
…――君は生きなければいけない。
あぁ、そうだ。
これはあのときの、領主様の……。
メイディアは思い出したそれに少し笑みながら重たい目蓋をゆっくりと上げた。
「ぴ?」
ぼんやりとした視界に映る人影は男の人のもので。
メイディアは誰だろうと小さく首を傾げた。
そして直ぐ側にある白を見つけてそれが自分が摘んだ花だと思い出しそして素早く視線を男の人に戻すと短く悲鳴を上げた。
「ピッ!?」
そこには覗き込む様に近付けられた―…アレクサードの顔があったのだ。
飛び起きながら悲鳴を上げる。
森で会ったお婆さん。
鳥にされた自分。
領主様の所に来たこと。
信じられない夢としか思えない事実は眠って起きても醒めずに現在も続行中だ。
あれから一ヶ月もの時が経つが、この事態に直ぐに馴染めるわけはなくメイディアはいつも慌ててしまう。
今でも実は今が夢で目が覚めたら自宅のベットで目が覚めていつもの一日が始まる気がしてならないがその予感は今の所起こっていない。
ここに来て生活は一転した。
忙しくてあわただしい生活はなく、あるのはゆったりとした時間。
やることがない、毎日。自分は何をすればいいのかと思う。否、早く戻らなければならないといけないことは分かっている。
それは確かだがその為に何をしたらいいのか。
気になることは沢山ある。家の戸締まりはちゃんとしてあっただろうか。窓から雨が入り込んでいたり、泥棒に入られたりはしていないだろうか。
近くにあるアレクサードの顔をメイディアは見上げた。
目が合い、フッとアレクサードの口元が緩む。
「おはようメイディア」
「ぴぃ、ぴ」
おはようございますと言葉にならない声で返す。
言葉での意志疎通は出来ない。
もどかしく思ってもこればかりはどうにもならない。
鳥だと言うことがもどかしく感じるときがある。
それでも、どうにか伝えられないかと毎日必死になっている。
現在の状態では元に戻ることなど、夢のまた夢だ。
「おいで」
差し出された指に素直に乗り、そのまま持ち上げられる。
この辺のバランスはもう問題なくなった。
身体も使いこなすことが出来るようになってよろめくことももう無い。
アレクサードの指がメイディアの頭に触れる。
ゆっくりを撫でるそれに、心地よくて目を閉じた。
救いなのは領主様に気に入られていることだろう。
ただもちろん恋愛感情などではない。
保護対象として、愛護動物としてなのだが。
気に入られている、とメイディアは思っている。
ここに来たばかりの一ヶ月前よりは確実に距離は近くなったと思う。
メイディアのベットの籠は部屋の隅のテーブルから、アレクサードのベットの頭側の横にあるテーブルの上に移った。
仕事中もメイディアを執務室へ連れて行って部屋の中で好きにさせるようになった。
四六時中一緒にいるようになっている。何がそんなに気に入られているのかは分からない。
よく分からないが、なんだか嬉しいのでメイディアは疑問をさらりとながして撫でる指に頭をすり寄せた。
コンコンと執務室の戸がノックされる音が響き、アレクサードは目を落としていた書類から視線を上げた。
「入れ」
アレクサードはなれたように言った後また手元へと視線を移す。
落とした声に、ドアの前で人の動く気配がしてドアがゆっくりと物音させずに開かれた。
「失礼いたします」
そう一礼して顔を上げたベートは窓の縁にもう見慣れた小さな青を見つけて、呆れたように息を吐き出した。
もう、当たり前のようにそこにいるようになってしまったその存在にベートは視線を向け、それに気がついたメイディアは困ったように首を傾げた。
メイディアは今日もつれてこられた仕事をする部屋に、自分があまり相応しく無いことが分かっている。
出来る限り邪魔にならないように動かないようにしていた。
何せ飛べない、と言うよりも飛び方が分からないので逃げたりしないと言うのもあるのだろうがここの人たちはメイディアを自由にさせている。
ベートは最初こそここにメイディアを連れてくるアレクサードに小言を言っていたが、今ではもう飽きられように溜息を吐くだけになった。
メイディアはそれを見ながら苦笑いを漏らすしかない。
それすらも分かってはもらえないのだが。
ベートに目をやったメイディアはその手に花が抱えられているのを見つけて小さく鳴いた。
アレクサードも気がついて声を上げる。
「花…」
その手には黄色い花が抱えられていた。
ベートは室内にある花瓶の所に向かい、その花を飾り始めた。
「えぇ、街の花屋で買って参りました。」
「買ってきたのか?」
「はい」
アレクサードは小さくそうかと漏らして、窓から街へ視線を移した。
朝の活気に包まれるそこにメイディアは目を細めた。
メイディアは朝にこの街にいることはない。
こんな様子を見るようになったのも、ここに来て初めてのことだった。
そんメイディアの背後、アレクサードの言葉にメイディアは振り返った。
「…最近、花が届けられなくなったな」
目を丸くしてアレクサードを見上げたメイディアは少しして自分を落ち着けた。
気にされるのも当たり前かもしれなかったからだ。
もう3年にもなる。
それが突然ぱったりと無くなったのだ。
「何かあったのだと思うか?」
「さぁ、差出人も女性と言うことしか分かりませんので何とも申せません」
フッとでた心配をにおわせる言葉にメイディアは少し嬉しくなった気がした。
感謝の気持ちが届いていたのかは分からない。
でも、気にしてもらえるほどには届いていたのかもしれないと思った。
こんな形で出来なくなってしまった事に、気づかれない様にメイディアは息を吐き出した。
「もうこないのか…」
「そうかもしれませんね、残念です」
べートの言葉にアレクサードはそうだなと返し、また手元の書類へと目線を落とす。
メイディアはその言葉にジッとアレクサードを見て、感じたもおどかしさに目を伏せた。
自分が人だったら、と思う。
花を届けられないのが残念だと言ってくれた。
それに答えられないことが悔しく感じる。
メイディアは外の景色に、あの森の方向へ視線を向けて思った。
…──せめて飛ぶことが出来たら花を取りに行くことが出来たのに。
鳥としての飛び方が分からない。
練習したら出来るようになるだろうか。
どれくらいで飛べるようになるのだろう。
メイディアは湧き出た思いに視線を下げた。
そこに移ったものにパチパチと瞬きした。
窓の縁、多分アレクサードのものである羽ペン。
それが半分ほど窓枠から外へはみ出てゆらゆらと揺れていた。
…落ちちゃう。
そう思い、とことこと近づいてその羽ペンを咥えようとしたとき。
びゅうっと強い風が吹き、羽ペンはメイディアの口に咥えられるよりも先にバランスを崩した。
「ぴぃ!」
思わず声を上げて追いかける。
パクッと何とか羽ペンを咥えたとき、メイディアの身体は外へと投げ出されていた。
「ぴ、ぴぃ──っ!」
襲う浮遊感。
落ちていく感覚に叫び声を上げた。
視界一杯に青い空が映って、思わずギュッと目を瞑る。
しかし、身体に感じたのはポスッと何かに受け止められる感触だった。
恐る恐る目を開けば相変わらず視界には空が広がっていた。
「旦那様!」
ベートの焦ったような声が聞こえた。
背中は何かに触れている感触がある。
メイディアは目を見開いて落ちた窓枠の方へ首動かし、見つけた光景にまた声を上げた。
「ピ!?」
背中に触れていたのは領主様の手の平で。
また助けられてしまったという思いが溢れ、そして…─なんだかとてつもなく自分が情けなく、悔しくなった。
領主様は、領主様の身体は半分以上窓から身を乗り出して、領主様こそ後一歩で落ちそうな格好で私を受け取ってくださっていた。
ベートが慌ててアレクサードの身体を引き上げる。
一緒に執務室の中に無事に戻り、アレクサードはペンを咥えたまま動かないメイディアの口からペンを取り、メイディアの頭をゆっくりと撫でた。
メイディアはアレクサードを、くちばしをギュッと閉じて見上げる。
「これを取ってくれたんだな、ありがとうメイディア」
「ありがとうではございません!」
アレクサードの言葉にメイディアは情けなさを感じながらも嬉しく思って少し身体から力を抜いた。
しかし、響いたベートの声にまたビクッと身体を揺らす。
視線をやれば、ベートは眉を寄せ厳しく顔を顰めていた。
「旦那様、メイディアは飛べなくとも鳥です。
しかしあなたは人だということをお忘れにならないで下さい!
ここから落ちればどんなことになっていたのか分かっているのですか!」
ベートの指摘に思わずメイディアは息を詰めた。
ここから落ちたら。
それは想像するのはあまりに容易で。
「…分かっている」
アレクサードの声は静かだ。
苦笑い気味にベートに視線を向けながら、指は優しくメイディアの頭を撫でている。
「分かっておられません!
メイディアと旦那様は違うのです。メイディアは無事でもあなたは無事では済まされません。
“鳥”をかばってあなた様が怪我を負うことなど以ての外です!」
鳥。
そう、私は鳥だ。
飛べない鳥。
落ちても自ら飛ぶことも出来ずに庇われるしかない。
落ちた私を受け止めるために窓から身を乗り出した領主様。
私を庇って“人”である領主様が怪我をされる…?
「落ち着けベート。
俺は無事だ、そんなに怒鳴るな」
「あなたはっ…」
もう一度声をベートは荒げた。
しかし、アレクサードの苦笑いのような困ったような顔を見て眉を寄せると重苦しく溜息を吐き出す。
そうして、ゆっくりと吐き出すように言った。
「…分かりました。ですが無茶はされないようお願いいたします」
「あぁ、分かっているさ」
そう言って笑ったアレクサードにベートは疲れた様な呆れた様な表情を向けた。
そのやりとりをメイディアは静かに見ていた。
領主様が、私のせいで怪我をする。
鳥となってしまったのに、飛ぶこともままならない私のせいで。
…きっと、また私が怪我をしそうになったとき、領主様は私を助けてくださる。
否、これは確信に近い。
この人は…、とても優しいから。
私は、領主様に何をしているだろう。
──…ご迷惑になるようなことしか出来てはいないじゃない。
飛べるように、ならなければ。
一刻も早く。
そうでなければ、私は何も出来ない。