春、サクラ


真っ白な病室に、窓から光が差し込み僕はその暖かさに目を細めた。


「祥吾さーん、点滴終わりましたかー?」
白く何もない病室に看護師の事務的な声が響く。
祥吾、それは僕の名前だっただろうか。
部屋に入ってきた看護婦は白い白衣を揺らしながらベット脇に立つと、んーと声を漏らし白いベットに横たわる僕に視線を落とし薄く笑みを作った。
「ん、無事終わってますね。今、何処か具合悪いところはありますか?」
看護婦は手を動かしながら優しくそう問いかける。
彼女は僕に長く付いてくれている看護婦だったはずだ。
名前はもう思い出せない。
胸元のプレートを見れば分かるだろうがその必要もないし、それよりも今は体を動かすのが面倒だ。
「特には、ただ今日は朝から少し頭がいつもよりぼーっとしています」
そう答えると看護婦は「んー、最近は体力も落ちてきている様ですし…。今日はしっかり休んでくださいね」とそう言った後、彼女は薬を僕に飲ませ忙しいのかそそくさと病室を出て行った。

ふわっと、部屋に飾ってある見舞いの花が揺れた。
開いた窓から暖かい風が病室内に入り込んでくる。
窓の外をぼんやりと見つめる。
僕は、脳に病を持っているらしい。
正式な名前はもう、忘れた。
何も覚えていられなくなる病気、昔のことも、最近のことも。
もう、大切だった記憶も曖昧にしか思い出せない。

窓の外、空を柔らかに彩りながら落ちていく淡い桃色の花びらに目を細めた。
ただぼんやりと輪郭だけをのこし消えていく。
忘れたくはないのに。
それと同時に、体の筋肉が衰えて、今では一人では歩くことも困難なほどに。
多分、もうそんなに長くは無いのだろう。

開いた窓から風と共に入り込んできた淡い桃色の花びらがふわりとベットの上に落ちた。
──…一つ願うとしたら、彼女の事は最後まで忘れたくは無いと言うことだろうか。
今はもう朧気になってしまった彼女の顔。
そうだ、あの時確か春、僕の昇進が決まりそうだった頃。
彼女は僕の勤めていた会社に入社して来たんだ。
あのときの彼女の緊張した表情をほんの少し思い出し、僕は小さく笑った。

『よ、よろしくお願いします!!』
そう言って、震える手で僕に書類を手渡す彼女に僕は小さく笑って『ありがとう』と言ってそれを受け取った。
彼女は心細げな表情で僕を見つめ、僕が書類の確認を終え『ん、OK』と漏らすと安心したように柔らかく笑ったんだ。

彼女は素直だった。
そしてとっても柔らかく暖かく笑う子だった。
優しくて、時々子供っぽい彼女。
その汚れのなさに僕はどうしようもなく惹かれたんだ。
それは時が経つとともに強くなっていって、自分では押さえきれ無くなっていったのを覚えてる。
そうだ、そして彼女が入社して2年目、お酒の力にをかりてそれを彼女に伝えてしまったんだ。
どうしてそんな話題になったかはもう覚えていないけれど。
 『…僕は、君が好きなんだよ。君が入社した時から、惹かれていたんだ』
心底参ったというように漏らす僕に彼女はきれいな涙を目にためながら小さく僕にうなずいて『…っ私もです! 本当は、ずっと…ずっとっ!』と感極まった様に抱きついて来る彼女に僕はギュッと腕を回した。

それからはとっても幸せな時を彼女と過ごした。
彼女にたくさんの幸せを貰った。
僕も同じだけの物を彼女に返してあげていたか不安になるほどの。
とっても幸せな思い出。
でも、それもそう長くは続かなかった。
彼女と、交際を始めて5年たった頃。
僕からすればあっという間だった5年。

──僕が、結婚をするにはもう遅いと言われても良いぐらいの年になったとき。
彼女を本当に自分が幸せに出来るのか、とか。
うまくやっていけるのかとか、いろいろ思い悩んでいた。
恋愛、恋人と夫婦は違う。関係が変わっても、それを壊すことはないのか随分と考えていた。
彼女を愛していたし、一緒に居たいと思っていた。強く、…強く。
だが、異変が現れたのもその時期だった。

『え、そうだったか?』
『え、じゃないよ。いつも時間にうるさいのは祥吾さんなのに』
目の前には怒った顔の恋人が居て僕らは僕の家の玄関で向かい合っていた。
『10時には私の家に来るっていってたのにっ、もう1時よ?』
ふくれる彼女を見つめて僕は自分の記憶を探ってようやく思い出すことが出来た。
そうだ一週間前に約束したんだったと気がついたとき僕は慌てて彼女に弁解をしていた。
彼女は困ったように『もう忘れないでね?楽しみにしてるんだから』そう、柔らかく笑ってくれたけど。
このときは、このことを深く考えては居なかった。
でも、異変に気がつくのは簡単だった。

『会議は2時からだと言っただろうっ』
『申し訳ありませんっ!』
怒る上司に僕は必死に頭を下げ、内心何故そんなミスをしたんだと自分を罵った。
このとき、僕は社の新企画の打ち合わせの会議を忘れていた。

休日、僕の家に遊びに来た彼女に飲み物を出した時だった。
『えっ、コーヒー?』
そう言う彼女に僕ははっとし、テーブルのコーヒーに目線を落とした。
そうだ、何でコーヒーを…。
彼女はコーヒーを飲めなかった。
『あ、ごめん! 入れ直して来るな』
慌てて台所に引き返そうとしたとき、彼女は心配そうに僕の顔をのぞき込んで小さく笑った。
『祥吾さん、大丈夫! お砂糖入れれば飲めるから。…それよりも祥吾さん、疲れてない?』
この頃には彼女も、僕の様子に気がつき始めていた。

『よっ、久しぶりだな。祥吾』
街で声を掛けられた。僕はその人を見、思考を巡らせる。
何処かで見たことがあるきがする、何処であったのだろうか。
『えっと、すいませんが、何処でお会いしたでしょうか?』
そう言うと相手は怪訝そうに眉を寄せた。
『お前、俺を忘れたのか?薄情な奴め。入社したとき世話になった先輩も覚えてないのか』
その言葉に唖然とした。
そうだ、彼は僕が今の会社に入社したときに指導して仕事を教えてくれた先輩だ。
今はもう転勤していないが、それでも転勤したのは4年前。
僕にとっての恩師であり、尊敬する先輩。それを僕は、直ぐに思い出すことが出来なかった。
それから僕の異変は続いた。

私生活でも仕事に関しても。
彼女からも、会社の人間からも心配され休暇を進められた。
それでも僕と彼女の中は良好そのままだったし、仕事もミスは少し増えたが順調と言える物だった、僕は少し疲れているのかもしれないなとその程度に考えていた。
僕は結局進められるまでに休暇を取り、念のためその日に病院へと行った。
医師に、僕の病を告げられたのはそのときだ。
 ───彼女に、プロポーズしようと指輪を買って少ししての事だった。

その後、仕事への影響から続けることは出来なくなり、退職した。
周りは嘆いて居たが、僕の直接の上司には事情を話していた。あと、腐れ縁の同期に。

医者には、寿命がそう長くないのも聞かされた。
社を止めて少しした後僕は病院に入院した。
そのときすでに左の手の指は思うように動かすことが難しくなっていた。
 
そして、それから多分4年。
ここにいると時間の流れがよく分からなくなる。
彼女には理由は言わないで、別れを告げた。
優しい彼女は僕の事情を知れば、分かれてはくれなかっただろうから。
居なくなる僕では、彼女を幸せには出来ない。
指輪は、今僕の手元にある。
ベット脇の棚の上に飾ってある。彼女への感情を忘れないように。

僕はベットの脇にある指輪の箱へゆっくりと視線を向ける。
彼女は今、何をしているだろうか。
愛する人を見つけただろうか。
今、幸せに過ごしているだろうか。

彼女が今、僕の事を知ることはない。
知っているのは、社の今でも見舞いに来てくれる上司と、腐れ縁の同期と家族に親戚だけだ。
もちろん口止めもしてあるから、彼女は僕の事は忘れていくだろう。
いや、もう忘れられたかもしれない。

彼女の名前は、何だっただろうか…。
そんなことを考え、僕は悲しくなった。
死ぬなら彼女を覚えているうちに死にたい。
そんな事を考え、ぼんやり見渡した窓の外の風景にふっと焦点が合った。
風に揺らされてさわさわと揺れる淡い桃色。
『私ね春に生まれて、お母さんの好きな春の花だったからこの名前になったんだって』
嬉しそうに柔らかく笑う彼女が頭に浮かんだ。
日の光を浴びて、柔らかく揺れる淡い桃色の花…
「桜…」
そうだ、彼女は──…

「…さくら」
思い出せたことに安心して、僕は薄く笑った。
安堵したことで気がゆるんだのか、薬が効いたのか僕はうとうととし始めた。
強烈な眠気が襲いゆっくりと、僕は目をおろしていく。
その瞬間、僕は彼女の…桜の懐かしい声と泣きそうな顔を暗くなる視界にぼんやりと見た気がして優しく笑みを漏らした。

「…さくら、愛しているよ」
眠りに落ちる瞬間、眠気が見せてくれた幻に僕はありったけの気持ちを込めてそう、言葉を落とした。
その言葉は誰の耳に届くこともなく、病室の静けさの中に溶けて消えた。



Fin





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