狐の花嫁
まだ日が高い時間。
あるちょっと大きめな街の、割と都会な感じの街の近くにある森。
そこの道に一人の女の子がうろうろと彷徨っていた。
「何処なのよここ〜っ」
そう、それは“迷子”そのものである。
ちなみに彼女は高津佳乃、れっきとした高校二年生だ。
「みんな何処行っちゃったのよ──!!」
森に叫びが響き渡り、鳥がバサバサと飛び立つ。
しかし、その叫びに答える者は居ない。
彼女はうなだれ、またふらふらと歩き出した。
それがさらに状況を悪化させることになるとは、このとき彼女は思っても見なかった。
“迷子”だがこれは立派な“遭難”でもある。
その場を動くべきではなかったのだ。
そして彼女はどんどんと深みにはまっていく。自ら進んで。
しかしそれが彼女にとって思いがけない出会いへと繋がったのだった。
こんな事になった発端は友人の提案だった。
「ねぇ、最近の私たちは不健康だと思うの」
「はぁ?」
突然こんな事を言い出した友人に私は怪訝な視線を向けた。
この友人は時折突拍子のないことを言う。今回は一体何を思いついたと言うのか。
「こんな汚染された空気を吸い続けてるなんて不健康よ!」
「…─で?」
何が言いたいのか理解できない。
佳乃はうんざりしたように聞き返した。
「自然が足りないわ…!!」
こんなかんじに、今回のハイキングは決定した。
それが何故こんな事になっているのか理解できない。
確かに友人何名かで道をあるっていたはずなのに。
「ねぇ、この道はこっちでい…あれ?」
そう言いながら振り返ったそこには誰一人として人影はなくなっていた。
「だーれーかー…誰かいませんかー!」
そして現在に至る。
一人で歩き出してどれほど経つのか、佳乃はツーと冷や汗を流していた。
周りの景色は町並みなど少しも見せずむしろ森の深さを増していっているような気がする。
本当に勘弁して欲しい。
そんなときだった、ガサリと葉の動く音を背後で感じて佳乃はバッと振り返った。
そこにいたのは、少年だった。
二人の視線がかち合いそこだけ時が止まる。
多分年下のしかし佳乃よりは身長の高い少年。
少年は白のワイシャツに黒いズボンをはき、白いような銀にも見える髪そしてもっとも印象強いのはその髪から覗く金の瞳。
鋭く光るその目に佳乃は身体を強張らせていた。
何処か、異質を含む雰囲気は佳乃に強い印象を与えた。
…─外人?
沈黙をやぶったのは少年だった。
「…お前どこから来たんだ」
「わかんないわよっ」
言ってから佳乃はハッとした。
先ほどまで感じた違和感は一気に吹っ飛び、思わず条件反射のように言い返してしまった。
しかしこの物言いは明らかに失礼だろう。
ましてや初対面。
と言うよりも何故こんな所に少年が居るんだろう。
まぁ、それなら自分も当てはまってしまうわけだが。
二人の間に沈黙が横たわり、少年がぽつりと言った。
「迷子か?」
「迷子って言うなっ!」
図星を突く発言に佳乃は否定したくて真っ赤になって即座に叫んだ。
素早い返答に少年は可笑しそうに笑い出してその反応に佳乃はムッとする。
それを見て少年はまた笑う。
佳乃はムッとしながらも、現在の状況を打開するための唯一の助けでもあるため何とか耐えた。
日本人離れしたその色を持っているのにすらすらと出てくる日本語に微妙な違和感を持たないでも無い。
佳乃は少年が笑い止むのをジッと待っていた。
そして少年の声が止んだとき佳乃はふて腐れたような声を低く出した。
「…気は済んだの」
「満足したな、久しぶりに笑ったぞ」
何がそんなに面白かったのかは全く理解できない。
佳乃は眉を寄せて少年を睨み付けた。
失礼すぎる。
「…」
開きかけた口をまた閉じる。
道案内をしてくれないか、そう一言頼みたい。
しかし、中々口は声を出してくれない。
と言うよりも初対面で大笑いしてくれたこの少年に頼み事をしたくなかった。
そう、第一初対面でどんな人間かも知らないのに果たしてそんなことを頼んでも良いものか。
チラリと少年に目線をやると、ニヤニヤと笑ってこちらを見ていた。
目があって思わずバッと逸らす。
あの笑みを見た瞬間思った。
……頼みたくない!
「…何か頼みたいことあるんだろ?」
ピクリと思わず肩を振るわせる。
そろりと顔を向けるとやはりニヤニヤとこちらを見ていた。
こいつ…ッ!
分かってる絶対分かってる!
こっちの思ってること分かってて、それが面白くてたまらないと言う顔をしている!
佳乃は少年をキッと睨み付けて見据えた。
「無いのか、無いなら私は帰るぞ?」
クスクスと笑いながらニヤニヤ言って来る少年に佳乃は眉間に皺を寄せた。
この少年性格悪っ!
しかも一人称私って、あれか、育ちの良さをアピールしているつもりか!
佳乃はキッと睨み付けながら渋々口を開いた。
「…帰る道を、教えて」
少年はニヤニヤ笑いのまま佳乃を見下ろして口を開く。
「それが人にものを頼む態度か?」
佳乃は心の中で絶叫した。
なんて憎たらしいのか。
しかしここで怒鳴りつけるのは大人ではない。
何とか耐えて、佳乃は笑みを作った。
「帰る道を教えて、…っ下さい!」
ニヤニヤ笑う少年にこれでどうだと言わんばかりに睨みをきかせて佳乃は息を吐いた。
少年はそんな佳乃を見てフッと笑うとスッと手を差し伸べた。
その手を見て佳乃は怪訝そうに眉を寄せる。
少年に視線を向けると彼は顎をしゃくって手と一言言った。
もしかして握手しろと言うことだろうか。
佳乃は怪しげに少年を見ながらも佳乃は恐る恐る手を伸ばしてその手を掴んだ。
少年はさっきまでのニヤニヤ笑いを引っ込めて今度はにっこりと爽やかに笑った。
「私の名前は銀だ、お前は?」
その名前を聞いて、佳乃は思わずぴったりだと思った。
その少年の持つ雰囲気にも、彼の持つ髪の色を持ってしても。
銀という名は彼にぴったりだった。
「…佳乃」
「佳乃か、良い名前だな」
そう言った彼の笑みにさっきまでの苛つきも忘れて佳乃は思わず見惚れた。
惚けていた佳乃はいきなり身体を引っ張られて前につんのめった。
「ちょっ!?」
バランスを崩して斜めになった身体に思わずギュッと目をつぶる。
が、ぼふっと何かにぶつかって支えられ、佳乃は恐る恐る目を開けた。
目の前にはやはりというか彼の呆れたような顔があった。
「あ、ありがとう」
「鈍くさいな」
折角お礼を言ったのに帰ってきた言葉に佳乃は眉を寄せた。
「ちょ、あんたが悪いんでしょ!」
「あんたじゃない銀だ」
「どうでもいいわ!」
「良くない」
そう言って、身体を支えられていた腕に銀は力を込めた。
そん感触に佳乃は改めて今の体制を思い出す。
転びかけて支えられて今現在銀の腕の中に抱き付いているような体制なのだ。
佳乃は思いついた途端顔に血が上るのが分かった。
手を突っ張って藻掻くが銀の腕は緩まない。
「あああんたね!は、離してよ!」
「あんたじゃない銀だ」
どうやら名前を呼ぶまで離さないつもりらしい。
佳乃はそれを悟って真っ赤になりながら叫び声を上げた。
「銀!銀、離してっ、これで良いでしょ!?」
そう言うと満足そうに笑いながら銀は佳乃を解放した。
佳乃は離れた腕に安堵して胸をなで下ろすが、再度銀に手を握られて驚いて顔を上げる。
銀はもう歩き出そうとしていて、今度は転ばずに佳乃も歩き出した。
「ちょっと手!離してよ!」
佳乃は離して貰おうと藻掻くが手は離れず、銀は佳乃の様子にクスクスと笑いを漏らしていた。
それを見て佳乃はさらに藻掻くが結局手を離させることは出来ず、最後には諦めて拗ねたように頬を膨らませ。
それを見て銀はさらに笑い声を上げていた。
銀に手を引かれながら連れて行かれるがままに歩いていた佳乃はフッと気がついた。
…私、行く場所言ったっけ?
でも銀を見ると待っているそぶりも見せず真っ直ぐに進んでいる。
しかし、言った覚えはない。
佳乃は眉を寄せて銀を見上げた。
「…ね、ねぇ何処に向かってるの?
私行くところ言ったっけ?」
「ん、大丈夫だもう着く」
平然と答えた銀に佳乃はまた眉を寄せた。
まだ全然歩いていない。
結構な時間森の中を彷徨っていたはずなのに、そんなに簡単に元の場所に戻れるのか。
同じ場所をぐるぐる回ってたとか?
いや、でも…
ぐるぐると考え込んでいると不意に銀が声わげた。
「着いたぞ」
その声に信じられない思いでえっと声を上げながら、顔を上げ広がっていた光景に目を見開いた。
目の前に広がる光景にギュッと眉を寄せる。
「…何、これ?」
そこにはまさに村と言った感じの風景が広がっていた。
そして何よりも違和感を持たせるのはそこを歩く人々の姿だった。
「耳と…しっぽがある」
どの人も同じくその頭部、そしてお尻からそれぞれ茶色の三角の耳、そしてフワフワとした耳と同色のしっぽが映えていた。
一瞬集団コスプレ軍団か、おかしな所に迷い込んだのかと思ったが、ここに連れてきたのは銀だと思い出しバッと佳乃は顔を上げた。
「ねぇ、ここ何処な…」
上げた目線の先、銀を見て佳乃は思わず言葉を切って声を詰まらせた。
そこにはにっこりとした笑みを顔に浮かべた銀がいて。
「ようこそ、狐の里へ。歓迎しよう」
そうのたまった銀の頭部とお尻からはその髪と同色の耳としっぽが生えていた。
唖然と、急に生えたそれに視線を凍らせた。
銀の髪と同色のそれらは、まるで本物のようにピクピクと動きを見せている。
いや、まて。
今銀はなんと言った?
狐の里へようこそ?
え、どういう事。
ええ、マジでもしかして本物?
「…本、物なの…?」
唖然とした声が思わず口から漏れた。
村らしき物を背に、こちらを向いている銀に向かって思わず一歩を踏み出す。
秘かに頷く銀を見て、何処か納得するような唖然とするような気持ちになった。
銀の持つ日本人離れした容姿や、その雰囲気の異質さ。
それは“人”では無かったからなのだと、知る。
佳乃は銀に気を取られて、人が近づいて来ているのに気がつかなかった。
「九尾様」
不意に、大人の男性の低い声がした。
思わずびくりと肩を振るわせる。
「白、留守中変わりはないか」
「はい、問題ございません」
淡々と交わされる会話。
感情の感じられない、無機質な声。
先ほどまで話していた銀と違い、無表情に硬質な威圧感のあるその様子に思わず息を詰めた。
年上らしき男性に敬語を使われ、それを当たり前としている銀は、違和感を抱くと同時に、しかしそれが当然だと思わせる。
“ハク”、と呼ばれたその人は白い髪を持つ青年だった。
そしてその彼の頭部とお尻からも、白い耳と尻尾が生えていた。
チラリと無機質な目で一瞬視線を向けられて身体を硬直させる。
「九尾様、こちらの女性は」
「外から迷い込んでいた、あちらへ返す」
銀の視線も、こちらに向けられ少し安堵するのと一緒に先ほどとの雰囲気の変わりように戸惑いを覚えた。
そして混乱が少し治まり、同時に自分の置かれた状況を理解する。
──いつの間にか村らしき─…狐の里の中を先ほどまで歩いていた人たちがジッとこちらを見ていた。
ザワザワと呟きが聞こえる。
「九尾様がお戻りになられた」
「あの娘外から」
「人間だ。王が人を…─」
「王が戻られた、宴の準備を急げ」
「変わらぬお姿でご無事で」
「人の世に下りられていたと」
「人が迷い込んでいる」
「何故人が」
次々に入り込んでくる。その声をどこか遠くで聞いている気がした。
囁く声は二つ。
王の帰還を喜ぶ声と、
─…人の多分私の事について。
王とは誰だろう。否、本当は分かっている。
恐らくこの隣の少年が──…王、なのだろう。
ハクさんが九尾様と銀を呼び、人々も九尾様と呼んだ。
そしてまた、王、と。
ここは、一体何処なのだろう。
こんな所は知らない。
知らない。
不意に、ギュッと手が温もりに包まれた。
酷く暖かく優しいその感触にパッと顔を上げる。そこに映ったのは太陽を反射して綺麗に光る銀で。
緩く細められたその何処か優しい目が私をのぞき込んでいた。
「佳乃」
「…─ぎ、ん」
王よ呼ばれる人と、この人は本当に同一人物なのだろうか。
そう、思うほどに私の手を包む銀の手は近くそして温かかった。
私の顔を一度見た後、銀はスッと里の中へ視線を巡らせる。
その視線が里の中へ向いた途端、呟く声は途端に消えた。
思わず顔を上げれば、そこには“王”たる銀に礼を取った形の人々が列を成し。
「戻れ」
低く硬い、声が頭上でした。
そしてそのまま、繋がれた手が引かれ。
銀はもうすでに何処かへ向かって歩き出していた。
先ほどまで居たところを振り返ると人々は何もなかったように動き出し。
またいつもの時間を取り戻していた。
銀は相変わらず佳乃の手を握ってスタスタと何処へ向かっているのか歩いている。
佳乃もまたそれに大人しくついて歩いているが、その視線はさっきまでとは違い前を歩く銀の耳とゆらゆらと揺れるしっぽに釘付けになっていた。
先ほどの戸惑いはこちらを気にすることなく引っ張っていく銀の態度に消え、興味はもっぱらその耳と尻尾に向けられていた。
…さっきまでは生えてなかったはずだ。
では何故今はそこにあるのか。
答えは分かっている、この場所に足を踏み入れてからだ。
佳乃はそんな事を考えながら自分の欲望に適わずそろりと手を伸ばした。
「っわ!?…おいッ、しっぽを掴むな!」
そう叫び声を上げて振り返り、むんずと己のしっぽを掴んでいた佳乃の手を引きはがした。
それに佳乃は眉を寄せて口をとがらせる。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「良くない!」
即答した銀に佳乃は名残惜しげに視線をそれに移してぽつりと呟きを落とした。
「だってフワフワして可愛い…」
「…っ!お、前は」
そう思わず漏らした銀は息を吐き出してジッと佳乃を見下ろす。
佳乃はその視線に怪しげに首を傾けた。
「私が怖くないのか?」
「…怖い?」
そう聞かれジッと考えてみる。
確かに怖がる要素は満載かもしれない。
見知らぬ土地に訳の分からない人間とは言い難い耳としっぱをはやした人たち。
恐らく狐?妖怪とか?
確かに到底理解できる話ではない。
そう考えながら佳乃は銀を見上げた。
…─その異質達の中まで、そして王という存在らしいこの少年は。
「…別に怖くないなぁ」
怪しさは満点だし、確かに本来なら恐怖を抱くのかもしれない。
でもそんな感情は少しもわいて来ない。
そう思いながら首を傾げて銀を見上げると彼は目を細めてこちらを見下ろしていた。
それはきっと、見下ろすその目が優しいせいなのだろう。
「やっぱりお前は良いな」
「…何が?」
問い返しても銀は答えることはなく、顔を上げて前に視線をやった。
それにつられて佳乃も前へと視線を移す。
…─そこには今見た中でもっとも立派なまさにお屋敷と言ったふうの建物が建っていた。
銀の足は確実にそのお屋敷の中へと進んでいた。
そしてその大きな玄関の前に立つと、銀は躊躇無くその扉を開いて中へとずんずんと進んで行く。
佳乃は慌てた。見知らぬ人の家で挨拶も無く入っていって良いわけがない。
「ちょっと銀!ここ勝手に入っても良いの!?」
「自分の家に入って何が悪い」
平然と言う銀の足は確かに迷うことなく進んでいる。
佳乃は驚いて銀を凝視する。
しかし直ぐにハッとして声を上げた。
「何処に行くの!?」
「帰りたいんだろう?」
疑問に疑問で返されて佳乃は当たり前だと声を上げた。
でも、未だ疑問には答えてくれない。
困惑したまま佳乃は銀の後ろを連れられるまま歩いていた。
ここで頼れるのは銀しかいないことだけは確かなのだ。
こんな場所で置いていかれでもしたら終わりだ。
その時銀はぴたりと歩くのを止めて立ち止まった。
佳乃はそれを見て続いて止まる。
銀は振り向いて佳乃を見下ろした。
手は未だ握られたまま。
銀は躊躇するように一度開きかけた唇を閉じ、しかしゆっくりと言葉を絞り出した。
「…─帰るんだな」
「帰るけど…」
銀の様子がおかしいことに首を傾げながら佳乃は問いにそう返す。
銀はその返答に、唇をギュッと引く結ぶと掴んだその手を自らの方へグイッと引き寄せた。
その腕に抱き込まれて佳乃は驚きに身体を硬直させた。
顔に血が上る。
銀は固まる佳乃の身体の首元に顔を埋めた。
「…今日は帰す」
「え…?」
その発言に佳乃は疑問符を浮かべて思わず声を漏らす。
「お前は私の花嫁にする」
その落とされた言葉に佳乃は数秒固まり叫びを上げた。
「はあぁぁあぁ!?」
「安心しろ、私は里の王。お前を傷つけるものはいない」
「え、ちょっと待って!何、どういう事!?」
佳乃の反応に構わず話す銀に佳乃は叫ぶように聞き返した。
しかし、その途端抱きしめる腕に力が籠もったのを感じて逃げだそうと藻掻く。
「…嫌か、お前も私から離れるのか」
弱々しく落とされた言葉に思わずぴたりと身体の動きを止めた。
佳乃は首元にある銀色の頭に視線を移し、その身体がぴくりとも動かないのを見て佳乃は眉を寄せた。
銀の発言が何処か縋る子供の声に聞こえた。
「淋しいの?」
その言葉に銀はピクリと身体を震わせる。
しかし、その言葉に応える声はなく。
銀はしばらくして小さく言葉を漏らした。
「…私は王だ。何かに縋ることは許されない」
今現在進行形で私に縋っているのではないかという言葉は飲み込んだ。
佳乃は何となく子供にするように銀の頭に手を添えてゆっくりと撫でる。
そこにある銀の耳がピクピクと反応したのが分かったがゆっくりと慰めるように手を滑らせた。
「忘れるな」
「ん?」
銀が静かに声を漏らし、佳乃は先を足すように声をかけた。
気分はまさに拗ねた子供を慰める母親だ。
そんな佳乃に銀は顔を首元に埋めたまま言葉を落とした。
「必ず会いに行く。私を忘れるな」
「え、えぇっ!?」
こんな体験は忘れたくても忘れられないものではないんだろうか。
佳乃は銀が花嫁をどうこう言っていたのを思い出して慌てた。
「ぎ、銀!!?」
声を慌てて出すと銀は顔をやっと上げて真っ直ぐ佳乃を見つめた。
佳乃も戸惑いながら見返すと銀はフッと目を伏せて佳乃に背を向けた。
そのままスタスタと先へと進む。
佳乃は戸惑いがちに声を上げて銀の後を追うと銀は外に繋がっているらしい一枚の扉の前で立ち止まった。
「ここから帰れる」
そう見上げる先から落とされた言葉に目を開いて扉へ視線を戻す。
戻るどころか今は銀にあったときよりも森の奥に居る気さえするのにここから帰れるとはどういう事だろう。
疑問に答えるかのように頭上から銀の声が降る。
「本来ならここには人間が入り込めないよう術がかけてある。
なのに術の内部のそこに迷い込んでお前は居た。
術の外に出たるためにはその外と繋がった扉を潜れるば帰れる」
正直あまり理解できなかったが、取りあえずこの扉を潜れば帰れるのだと言うことは理解できた。
戸惑うように銀を見上げればドアを開けるのを促すように顎をしゃくられた。
それを見て佳乃は取りあえずそろりと手を伸ばし、そのドアをゆっくりと開けた。
キィと鈍い音を立てながら扉は開き、入り込んだまぶしさに佳乃は思わず目を細めた。
広がった光景はさっきまでとあまり変わらない森の気に囲まれた道で。
「へっ!?」
佳乃は首を傾げながら一歩を踏み出そうとして腕を後ろに引っ張られて、仰向けにバランスを崩した。
衝撃に耐えようとギュッと目を瞑った。
しかし痛みは訪れることはなく身体に回された腕の感触に恐る恐る目を開いた。
開けた視界にかすめた銀色は何だったのか。
唇に落ちた柔らかい温もりに佳乃は目を見開いたまま身体を硬直させた。
何だったのか認識する前にそれは離れ、耳元に息が掠めた。
「また直ぐに会おう。私の花嫁」
その言葉と同時にトンと軽く背中が押され、佳乃はそこから一歩を踏み出した。
勢いに押されて何歩か歩き、佳乃は息なりのことに訳が分からなくなりながらバッと振り返った。
「ちょっと、ぎ…」
銀、と呼んだ名前は途中で途切れ、佳乃はそこに広がっていた光景におもわず声を漏らした。
「…う、そ」
そこに今まで居たはずの建物は全く見あたらず。
広がるのはひたすら同じ途切れない森の道。
さっきまで話していた少年も建物も村もそこに何かが会った面影は少しも残さずその場所から綺麗に掻き消えていた。
佳乃は茫然とそこに立ちすくみ、ただそこに会った筈のものを探して視線を彷徨わせた。
「佳乃ー!」
聞き慣れた呼ぶ声に佳乃はハッとして振り返る。
どれくらい立ちつくしていたのか、こちらに駆け寄ってくる友人達を見ながらぼんやりと考える。
「探したんだからー、気がついたら居ないんだもん驚いたよ」
「見つかって良かったー」
「…あ、うんごめん。私も一人になって焦ったー」
そう漏らしながら仕切り直しだと良いながら進み出した友人達に今度は置いていかれないように一緒に歩き出す。
友人達に囲まれながら思う。
あれは何だったのだろう。
私は夢でも見ていたんだろうか。
佳乃は首を傾げながら、さっきまで会話をしていた少年が脳裏を掠めた。
そして同時に抱きしめられた腕の感触と
…─唇に一瞬触れた温もりを思い出して佳乃は一人赤面したのだった。
Fin