黒猫電車
プシューと音を立てて電車が止まる。
茉梨はうつろな目でそれを眺めておもむろに開いたドアのその中へ足を踏み出した。
後ろでまたゆっくりとドアが閉まる。
少しして緩やかにカタンカタンとそれは走り出した。
茉梨はそれを感じ、ほんの少し唇を噛み締めた後目を一瞬つぶる。
苦しかった。一人だと感じて淋しかった。
だが直ぐに茉梨はそばのイスへとその身を預けた。
その中にはこの時間では不思議なほど人が居ない。
否、茉梨しか乗っていなかった。
でもそれを気にしている余裕など無い。
正直どうでも良かった。
また目が熱くなり始めて、茉梨はギュッと目を閉じた。
その時だった。
「ほう、珍しいな」
いきなり頭上から降ってきた声に思わずバッと顔を上げる。
視界に映ったのは艶やかで細い黒髪。
茉梨は思わず息を飲んだ。突然現れた整った男の顔に鋭く光る金の目に何故か分からない、捉えられた。
それにこの男は一体何処から現れたというのか。
ここには誰もいなかったはずだ。
気配も、足音すら気付くことが出来なかった。いつの間にここまで接近したというのか。
「……あ、の? 」
私に何故話しかけてくるのかも分からなかった。
戸惑い気味に声を上げると男はスッと目を細めた。
「ここで人を見るのはいつぶりか」
なんとなしに男はそう言った。正直意味が分からない。だってここは誰もが使う電車の中だ。
人を見ないなんてそんな事はあり得ないことだろう。
訳が分からない。イライラした。理解できない。
早く何処かに行って欲しかった。
「そうですか」
そう言って私には関係がないと、窓の外に視線を移した。
ガラスに自分の顔が映る。泣きはらした目が朱く染まっている。
メイクも落ちかけている。最悪だ。
ふと視線を自分の顔からずらすとガラス越しに男と目があった。
その瞬間男の目がスッと細くなる。
気まずくてそっと目を逸らした。
本当にこの人はいったい何なんだろう。
「ここがどこだか知ってるか? 」
男は静かに言った。意味が分からない。そんなことはわかりきっていることだ。
電車以外の何処でもない。
私に何の用があると言うんだ。沈黙をたもつと男が静かに口を開くのがガラス越しに見えた。
「ここは深く悩む者が時折迷い込む場所」
意味が分からなかった。この人は頭がおかしいのだろうか。
私にそんなことを話す意味も、言っていることの意味も理解できない。
確かに悩んではいる。
父さんと母さんが離婚する。前から言い争いが絶えない家庭だった。
それでも私は二人が好きだったのだ。
何も出来ない無力感。離れて欲しくないのに。
そっと、家を飛び出してきた。私に気がついて欲しくて。
何て子供じみた抵抗。こんなのは無駄だと、ただの我が儘だと分かっているけど。
男はなおも続ける。
「いくつかの条件が揃うことで人間が闇へと紛れる場所」
人間がと言うのが引っかかった。まるで人間じゃないものが居るような言い方だった。
本当に意味が分からない。この人は何がしたいのだろう。
「信じなくても良い。ただ聞け」
信じるも何も言っている意味が分からないのにどう判断しろと言うのだろうか。
いや初対面だという事を考えればこの状況こそが異質。
「お前は悩み、打ちひしがれている」
そっと、頭に手が乗せられる。ゆっくりと子供にするように頭が撫でられた。
普通なら痴漢だと叫べば良いんだろうが、そんな気は起きなかった。
優しい、その動きと久しぶりに触れてくれた温もりで少し胸が温かくなった。
こんな風に撫でられたのはいつぶりだろう。
「誰かに相談したか? お前は何かできることを探したか? 」
する訳がない。友達にどう相談すればいいのか。彼氏にどう言えというのか。
そんな重い話出来るわけがない。迷惑をかけたくない。
「ため込んだのだろう。我慢したのだろう」
だって我慢するしか無いじゃないか。離婚なんかして欲しくない。でもそんなこと言えるわけ無い。私は何も出来ない。
「一人で悩むな。誰でも良い、相談して一緒に考えてもらえ」
出来ないからこんな事しかできないんじゃないか。
こんな所に居るんじゃないか。
「……だって、こんな事友達に話してどうなるの?
重い、し。どうにもならないじゃない」
そう、言ったってどうにもならない。離婚は無くならないだろうし。自分は何をしたってどうにもならない。
「お前は気持ちを伝えたか? 何もしていないだろう。どう思って、どうして欲しいのか。気持ちは言葉にしなければ伝わることはない」
何も、していない? 伝わっていない?
そうかもしれない。私は悩んでため込んでそれだけで何もしていない。逃げ出すことしか、していない。
「何もしていないのにどうにもならない何て何故分かる? 」
スッと、頭を撫でていた手が離れる。
思わず顔を上げて手を伸ばして追いかけた。でもそれはするりと躱されて。
「お前はまだ何もしていない」
こちらを細めた金の目がジッと見ていた。しっかりと目が合うと男はフッと笑った。
「ここに来るのはまだ早すぎる」
そう言われて、意味が分からなかったけど力が抜けた。
「ここは人が闇に落ちたいと願ったとき、闇へ行く通過点。
闇の使者、黒猫が管理する人を闇へと導く場所」
男はそう言ってスッと私に背を向けた。相変わらず意味が分からない。でもなんだか胸がすっきりした気がした。コツコツと男は背を向けたまま去っていく。
「お前が本当に闇に落ちたいと願ったときまたここに来ると良い」
「…まってッ!! 」
さって欲しくなくて遠くなる背中に手を伸ばした。
その背中を掴んだはずの手を中を舞って、そこで止まる。
「え……」
声が詰まった。頬を冷たい風が撫でる。
電車の中だった筈のそこは駅のホームだった。
思わず立ちつくした。
そこは私が確かにさっき電車に乗ったはずのホームで。
「……夢? 」
その呟きは強い風を起こしてプシューと電車が目の前に止まって呟いた声はかき消された。
ドアが静かに開く。
惹かれるようにフラとその中に足を踏み出す。さっきの所かもしれないと思って。
中に入りきったとき足下をスッと何かが撫でて通り過ぎた。
「?」
振り返って確かめるとそこには黒い猫の背中があった。
次がれるような艶やかな黒の毛並み。この電車に乗っていたのだろうか。
ゆっくりドアが閉まる。
その時、猫がこちらを振り返った。見えたのは冴えるような金の目。それがスッと細められて目があった気がした。
そしてまたゆっくりと電車が動き出す。カタンカタンと言う音が耳に届いた。車内に視線を巡らせれば何ともない普通の電車。人が居る。音楽を聴いている人本を読んでる人うたた寝をする人。
それなりに人が居る何ともないいつもの風景だ。
もう一度駅があった方へ視線を向ける。それはもう小さくなって遠くに見える。
夢かも分からない男を思い出した。
「……まだ何もしてない、かぁ」
両親に私が訴えかけてばそれに答えてくれるだろうか。私の気持ちに気がついてくれるだろうか。友達に相談すればもっと何か方法があるだろうか。
取りあえず、私が居ないことに気がついた両親が心配しているかもしれないし。
早く家にからないといけない。それで言ってみよう。
今度はちゃんと自分の気持ちを。
不思議で変なあの男の人は何者かは知らないけど。
今日、子供じみた抵抗だったけどして良かったと思える。
なんだか久しぶりにとても気分が良かった。
Fin