深淵の森に住む者 01


白とや淡い色で統一されたその部屋に置かれた白いテーブルとイスに座り、紅茶を飲みながら本に視線を走らせるその女は、部屋への来訪者に視線を向けることもなく「どうしたロネ」と低く声を発した。
それはその若い容姿には似合わない威厳のある声だった。
声を掛けられたその主─…まだ小さい少年は、見た目に合わない落ち着いた様子でゆっくりとお辞儀をしそして淡々と女へと言葉を告げた。
「マスター、深淵の森中心部から5qに訪問者がいらした様です」
深淵の森。
そこは深く迷いやすい事で有名だ。その地に詳しい者でなければ足を踏み入れようとはしない。
しかも中心部にほど近い深部まで来る者など余程の物好きか…それか、アレ≠目的とした者しか居ないだろう。
「…訪問者の容姿は」
「長身の焦げ茶の髪に碧眼の20代前半の男性です。
 黒を基調にした服に見事な装飾の長剣を腰に下げ、その剣にはラーザの王族の家紋が施されておりました。──おそらく王族かと。」
その報告に、女は一瞬動きを止める。
王族が森の深部に居るなどあり得ないこと。おそらく十中八九アレ≠目的として来たのだろう。
では、何のために?自らの私欲か。それとも国のためか。
「─いつものようにお持てなししろ」
「御意、マスター」
その瞬間、その場にいた少年は一瞬にして掻き消えたのだった。
しかし女はそのことを意に関せず、手に持っていた本を閉じる。
そしてゆっくりとイスから立ち上がると、ぼそりと声を漏らした。
「さて、お茶は必要かしらね」
そう言って、薄く笑みをその顔に浮かべた。



男は暗い森を一人邪魔な草木を切りながら進んでいた。
その森はまだ夕方だというのに薄暗く、先がはっきりと見えない。
長身に焦げ茶の髪に碧眼を持つその男は、黒を基調にした服に見事な装飾の長剣を腰に下げ森を切り進む。
男は苛立たしい様子で剣を振りズンズンと足を進ませた。
今年にはいってこの国の10人の民が姿を消した。捜索を続けているが手がかりは何もない。
──これは俺の力不足だ。最初の被害者からもう5ヶ月も経っている。
立ち止まるわけには行かない。
この森に少しでも可能性があるのなら。
他に手がかりは無かった。否、見つけることが出来なかった。
過去に今回のように連続で何件も人が居なくなることは無かったのだ。
共通点は皆森に足を踏み入れて居なくなったと言うことだ。
…過去に森で居なくなって居た者はいた。しかし、それは迷い出られなくなったか森に住む魔族に殺されたとされていた。
が、今回は連続して10人もの人が行方不明になるのは異常だ。
今までもそうだが、もしかしたら誰かの何らかの目的で攫われていた可能性もある。
しかし、居なくなった森はすべてが同一というわけではない。国内には、否大陸には多くの森がある。
その中でも深く誰も足を踏み入れない森で噂が立っていた。
森の最も深くに願いを叶えてくれる女神が居る
そのどの森でも似たり寄ったりの話が広がっていた。
行方不明者はこのために森に入ったのか、それとも誰かがそれを利用し民を捕らえたのか。
噂が一番広く、そして丁度その森達の中心に位置するこの深淵の森≠ェ何らかの手がかりの一番の可能性があるはず。
森に住み着くのは悪魔か女神か。それとも魔族か人か。
それを探るために来たというのに―…。
男は苦々しげに舌打ちした。
奥に進む途中で方向を見失ってしまった。この森で自分までもが行方不明なるなどまっぴらごめんだ。
男は先の見えない森の闇を見つめて疲れたように息を吐き出すと、側にあった木の根元にドカッと座り込んだ。
木の隙間から見える青い空を見上げてソッと目を閉じた。
「…策も考えずに進んでも深みにはまるだけだ」
そう呟いて、男は思考の中に意識を沈めた。

男はハッと目を見開いてバッと立ち上がった。
生き物の気配だ。
ソッと剣の柄に手を掛ける。その気配は森の動物ではなく人間のものだ。それがこちらに向かってきているのが解った。
パキパキと木を踏む音が近づき、そして見えた姿に男は目を細める。
森の陰から出てきたのは、少年だった。
場所に対してのその不釣り合いさに、男はグッと顔を顰める。それが気がつかないように、少し驚いたような顔をして男を見つめた。
「こんな所でどうしたんですか!人が居るなんて珍しい」
男は怪しげな顔になる。この場所に不釣り合いなのはどう見ても男より少年の方だ。
それを見た少年は慌てたように手をぶんぶんと振った。
「あ、ボクはこの森に、よく薬の薬草取りに来るんです!今日も森にある泉に行く途中なんです」
少年の弁解に男は思案するようにその表情をジッと見た。
―…言っていることが本当ならば、この森の地理は完全には把握していると言うことか。
信用するなら、だが…。
しかしこの少年が俺を騙すことの利点は何だ?
「あなたのような身分が高い方がどうしてここに?」
その少年の声に男は顔を険しくして声を低く発した。
「何故そのようなことを聞く」
「あ、いえ、すみません。 ここってよく女神様に会いに来た人が迷われるんですよね。
 ボク迷った人が居たら案内してあげるようにしてるんです」
その言葉をスラスラと淀みなく言った少年は嘘は言っていない様に感じた。が―…
…女神だと?
「女神が居るというのか」
「え、会いに来られたんじゃないんですか?
 ここに来る人はみんな噂を聞いて、お願いしに来るんですよね。
 ボクはまだ試したこと無いんですけどね。今行こうとしていた泉に居るんですよね、女神様」
女神など居るはずがない。
居たとしてもそれは人の戯れか、人型ならばそれは上位の魔族だ。
もしや、行方不明者達はその魔族によってやられてしまったのか
…いや、通常魔族は位が上がるほど人と関わろうとはしないものだ。人型をとれるほど高位ならばなおさらのこと。
男は剣に置いた手に力を入れると、少年を見据えて低く言った。
「…そこに案内して貰いたい。良いか?」
少年は一瞬ジッと男を見つめたあと、薄く笑みを浮かべた。─その笑みは少年にはあまりに不釣り合いな色を濃く映した笑みだった。
「ボクも、そこに行くと言ったでしょう?もちろん良いですよ。
 あ、ボク、ロネって言います」
男は名を名乗った少年の笑みを見てフッと息を漏らした。
「ロネか俺はエルバーだ。」
「じゃ、エルバーさん、行きましょうか!
 急がないと日が暮れちゃいますし」
そう、無邪気に言ったロネにエルバーは信用して良いのか駄目なのか分からず重たく息を吐き出した。
全ては女神とやらにあったら分かる、か。
エルバーは剣を握る手に力を入れると、先を進むロネを見失ってしまわぬように一歩を踏み出したのだった。



ロネは本当に森を把握しているようで、森にあるという泉に向かう途中立ち止まっては生えている薬草を採取して腰の袋に入れていた。
迷いのない足取りに、良く来ると言うことは嘘では無かったのだと確信してもう迷う心配がないことにエルバーは内心で安堵した。
無言で歩いていたエルバーはロネと歩き出して1時間ほど経って、ロネが薬草を採るために七回目に立ち止まったとき、久しぶりに口を開いた。
「泉まであとどれくらいあるんだ?」
ロネは視線を薬草から離さないまま、答える。
「んー、あと20分も歩けば着きますよ。
 薬草もあとは泉の辺に咲いているものを取るだけですから」
そう言ってパンパンと膝に付いた砂を落としながらロネは立ち上がった。
何ともないように言ってのけるロネに、余程日常的にこの森に通い、知り尽くしていること感じエルバーは目を細める。
国も把握していないこの森を、良くここまで─…。
そんな様子のエルバーを知ってか知らずかロネはさも今思いついたと言うようにロネは口を開いた。
「そう言えばエルバーさんは女神様に何をお願いするんですか?」
無邪気な笑顔でそう聞かれたエルバーは一瞬表情を固めた。
しかし直ぐに表情を戻す。
子供はどこまでも無邪気で好奇心が強いものだ。恐らく、この森でこうやって会う者にはその度に聞いているのだろう。
しかし、この違和感は何だ? 何かが詰まっているようにすっきりしない。何かが引っかかる。
エルバーは軽く息を吐いた。
…今ここで勘ぐっても仕方がない、か。
「本当にいるなら良いがな。見つけ出したい人たちがいる」
ロネの目がスッと細められて、鋭く光が走る。
エルバーは、剣に視線を落としていた。その手はそれの存在を確認するように動きかちゃかちゃと小さく音を立てる。
「…見つけたい人、ですか。それはあなたにとって大切な人なんですか?」
ロネは少し落とした心配そうな声色で問いかけた。しかし、その表情に宿る色は無機質な観察者の見定める様な者で酷く不釣り合いだった。
しかし、真っ直ぐに前を向きながら言ったエルバーは気がつかない。
「大切か…、少し違うな。大切だがしかし 守らなければならない、俺が守るべき存在だ。
 手は尽くした。ここにも手がかりを探しに来たんだ。…─迷ってしまったがな。
 そしてロネ、お前と会ったわけだ。この際だ、女神にでも何でも収穫があるなら頼ってやる」
苦々しくそう言うエルバーはそっと肩を揺らした。
そこから、苛立ちとそしてその状況に対しての無力感、失望、落胆と。多くの感情が渦巻き、その行為を本当は望まないのだと、そう容易に読み取ることが出来た。
自分の手で、何一つ、手がかりさえも掴めない。
一人であがいて、そしてこの様だ。まったく馬鹿馬鹿しい。自分の力で何とか出来るなど思い上がりも甚だしい。
しかし、見栄を張っても仕方がないのだ。
プライドを守るために手がかりを取り逃がすなど、それこそ愚か。
縋れるならば、何にでも縋ってやろう。今必要なのは素早い判断力と行動だ。
なんとしてでも、俺は彼らにたどり着いてやる。
強く握られた剣がかちゃっと音を鳴らす。
思考の中にいたエルバーは気がつかなかったのだ。
ロネが後ろで少しの間立ち止まり、そしてその顔から年相応の表情を全て消し無機質に小さく口元を動かした事に。
『マスター、訪問者確認完了しました。移転陣へ案内を続行します』
そしてこの場がその先の命運への分岐点であったのだと知るのは、彼が時を超えた存在と出会うその後のことだったのだ。



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